題「師に似る者」ルカ6:39-49

 父の日礼拝にお父様方のご来会を歓迎し感謝をもって心から祝福させていただきたい。

 今年の父の日にあたり、作家三浦綾子氏の小説「塩狩峠」の主人公永野信夫(実在の鉄道員長野政雄氏、北海道の塩狩峠での鉄道事故の際に自らの命を犠牲にして多くの乗客の尊い命を救った人物)の父親が遺した言葉を思い出した。

 「人間は、いつ死ぬものか自分の死期を予知することはできない。ここにあらためて言い残すことほどのことは、わたしにはない。わたしの意志はすべて菊(妻)が承知している。(中略) そして父が為したこと、すべてこれ遺言と思ってもらいたい。わたしは、そのようなつもりで、日々を生きてきたつもりである」。

 このお父さんは、「自分の毎日の生き方そのものが遺言である」というのだ。子と家族に遺す感動的な言葉である。それほどまでに父親として真剣な人生を送ることができたならば、なんと幸なことであろうか。しかも、このお父さんの息子がやがて父親のように一生懸命生きて、その命を他者のためにささげた。そこに父の志を受け継いだ父に似た息子の生き方が証されたのではないかと思う。

 では自分はどうか、と問えば、そのような素晴らしい人生のお手本のような父親ではない。赤面甚だしい! 毎日反省の日々であるというか、出来の悪い、情けない惨めなお父さんである。

 反省の日々といえば、中国の古典「論語」にある「吾日三省吾身」(われ日にわが身を三省す)という言葉がある。1881年(明治14年)、書店・出版社である三省堂の創業者が「論語」の言葉を大切にし、「不忠(忠ならざるか)、不信(信ならざるか)、不習(習わざるを伝うるか)」について自らを省みるところから三省堂と名づけたらしい。謙虚な姿勢に大いに教えられる。

 さて、主イエスの語られる御言は、聞く者を謙虚にさせる。「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」(6:37-38節)と主は言われた。

 イエスは、幸いな人間関係のために、「人をさばくな」「罪に定めるな」「赦せ」「与えよ」と命じられる。ここで自分の他人に対する量りと、神が人に対する量りとが、比例関係にあることがわかる。自分がそうすればそれが功徳になり得をすることではない。神のみを真のさばき主であると認めて、遜って「赦し・赦され」「与え・与えられる」関係こそ肝要であるのである。主は、ここで自称義人を自認するユダヤの宗教学者、律法学者やパリサイ人たちを批判している。

 具体的に三つの譬えを語られる。

 ①「盲人の手引き」(39節)。盲人が盲人の手引きができないように、真理を正しく理解していない者が、無知でわきまえのない他者を導こうとするならば、二人共失敗してしまう。真理を知らない無知な人々とは、その時代の指導者たちであり、そのような人々がユダヤの一般民衆を指導しているのだ。

 ②「弟子と師」(40節)。師が弟子を指導し育てようとしても、「師ぐらいになる」のが限界であろう。指導する側に問題や欠陥がある場合は、弟子はそれを越えていくことはできない。如何なる教師も自ら達した段階以上のことを弟子に教えたり訓練することはできない。一般的にも、「水は水源地以上に高く上がらない」と言われている。

 ③「ちりと梁」(41-42節)。人はとかく、自分のことを棚にあげて、他人のことをかれこれ言いたがるものである。自分は大きな罪を持っておりながら、他人に関しては小さな罪を大問題であると指摘し責め立てるのである。自分についてはスポットライトを当てて長所が大きく見え、欠点は自分勝手にスモッグで覆い隠し見えなくする。しかし、他人のこととなると小さな欠点でさえもスポットライトを当てて大きく目に映し、そのために長所が見えなくなっている。宗教指導者たちも一般民衆もこのようなスパイラルの渦の中に巻き込まれていたである。

 そうならないためにも、自己批判の努力をしていかねばならない。「自分の目にある梁を認めないのか」とは、「見抜くこと」「注意すること」を意味している。謙虚な態度で、努力して自分の心の「梁」に気づきそれを取り除けることである。そうすれば、「兄弟の目にあるちりをとりのけることができるだろう」とある。

 これらの教えからお互いに如何に自己吟味していくことが重要であるのかを知ることができる。ローマ12:3では、「思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである」と記されている。神が与えてくださった「量りに応じて」、他の人を量るということだ。神が自分をどんなに愛してくださったか。どんなに赦してくださったか。どんなに忍耐してくださったか。神から賜った量りを量るのである。そうすれば、謙遜と気前の良さが出てくるのではなかろうか。

 これを忘れてしまうと、家族や友人や信者同士であっても、さばき合いに陥ってしまう。「彼らは仲間同志で互にはかり合ったり、互に比べ合ったりしているが、知恵のないしわざである」(第二コリント10:12)とある。

 「善人は良い心の倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである」(45節)とあるが、もし私たちにキリストの恵みがあるならば、だいじょうぶである。

 「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか(自覚していないのか・認めないのか)」(第二コリント13:5)とある。

「あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者となりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである」(エペソ5:1,2)。

「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(第二コリント3:18)。

 主の恵みの内にあるならば、私たちは主に似る者とされるのである。

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