| B・F・バックストンは、若い伝道者たちに対して、「同じ説教を何度も繰り返し語ること」を勧めた。彼は、「命のある説教」を使い捨てるのではなく、聖霊の油注ぎのある限り、繰り返し語るべきだと指導されたのだ。毎回、絞り出すように新たに準備する説教よりも、上から与えられた聖霊の息吹を受けた説教を何度も語る方が良いというのである。その意味において体験的に教えられた今朝の説教は、これまでいろいろな場所において語ってきた内容でもある。 聖潔(きよめ)の説教ではないが、人間の最も深い喪失感、愛する者との死別体験にある人々に対する慰めのメッセージである。 この箇所には、主がナインの町(ガリラヤの南西に位置しシュネムの近くにあった。町の東に墓場があったので、「町の門」から出て来た参列は、カペナウムから来たイエスの一行とはち合わせた)で一人のやもめ女に出会った出来事が記されている。 それは、やもめ女にとってかけがえのない一人息子が突然死に葬式の日のことであった。大勢の人々が可哀そうなこの一人のやもめに付き添い慰めていた。主は、この婦人を見て深い同情を寄せられやさしく言葉をかけられたのである。「泣かないでいなさい」と。 そして、主は近寄って棺に手をかけ(ユダヤの律法では死体や棺に触れることは汚れることを意味していた。主は敢えてそれに触れられたのだ)、行列をとめ、死人に若者をもう一度よみがえらせ、彼を母にお渡しになられたというのである。主は、やもめに大いなる奇蹟をもって慰めをお与えになられたのだ。 死は思いがけない時に突然襲ってくるものである。不幸の出来事は、予期しない時に訪れるものである。誰もそれを望まず、できればそのようなことには関わりたくないと思うほどである。しかし、それは前ぶれなく静かに近づいてくる。 さて、このナインの女は、家族四人で幸せな生活を営んでいた。しかし、突然一家の大黒柱であった夫が死んでしまった。その日以来、彼女は重荷を負う人生を送ってきたに違いない。 彼女は苦労を重ねて一人息子を大切に育て成人させていたのだろう。しかし、死の問題は再び彼女の心を引き裂いた。突然一人息子が死んだのである。おそらく、婦人は生きながらにして地獄の苦しみに投げ落とされたに違いない。彼女は、気も狂わんばかりに冷たくなった我が子を抱いていつまでも泣き叫んでいたことであろう。 しかし、無情な葬りの日がきた。町中の人々が、婦人を慰めるために集まってきた。やさしく婦人を支えるようにして葬る墓場まで付き添っていこうとした(12節)。 主はそのような時にやもめ女に出会われたのである。13節に、「主はこの婦人を見て深い同情(あわれみ)を寄せられ、『泣かないでいなさい』と言われた」とある。ここで、私たちはイエスが心痛の人に対してやさしいお方なんだなぁと印象づけられるかもしれない。 だが果たしてその程度なのであろうか。 実はユダヤ教の神観念の一つに、「神は権威あるお方で、他の何者にも干渉されることなく、影響されることなく、その存在は微動だにしない」というのがある。 ましてや、ちっぽけな存在である被造物の人間に影響されることなど決してあり得ないという思想と考えがあった。 先週の箇所(ルカ7:1-10)で、私たちは、「神とは絶対者の権威ある者である」ことを見てきた。百卒長は、イエスのこの権威に服して、「ただ、お言葉をください」と言った。すべてのものは、主の前に跪き、彼の権威に服する。彼こそ神であり唯一の権威者である、と百卒長は信じていたのである。 主のナインの町以前の宣教活動において、正しくそのようなお方として人々の目には映ったことであろう。そして、今弟子たちも大勢の群衆も一緒になってナインの町に来たのだ。 ところが、どうしたことか。イエスのやもめ女に示されたお姿は、多くの人々の未だかつて見たことのないお姿であった。 主はここで一人のやもめに影響され、心揺さぶられ、深い同情をお示しになられたのだ。それは人々が不可解に思うほどのものであった。そこにはもはやあの権威あるお方の姿はない。ユダヤの神観念とはほど遠い好ましいものではなかった。ペテロなどが、主を手元に引き寄せて諫めてもよいほどであった。「主よ、ご身分ですぞ。毅然としたお姿をお示しください」と。 しかし、主イエスにとってそのような人々の評価などはどうでもよかった。主はこの一人のやもめに目をとめ、その心を知られ、自ら感動され、我を忘れるように深い同情をお示しになられたのである。この瞬間はやもめのためにある。この時間は、彼女に独占されているように、ひたすら主イエスの心はやもめ女に向けられている。そして、主はやさしく語られるのである。「泣かないでいなさい」と。 その言葉は短い。しかし、無味乾燥ではない。主イエスのみ語ることができるお言葉であった。確かに私たちの人生に対する問いとして、「なぜ人生にこんな不幸が起こるのだろうか。神はなぜそれを許しておられるのだろうか」と、どうしようもないすでに起こってしまった事に対して嘆き悲しむことがある。 誰かがそれについて、「神は善なるお方だから、苦しみを耐え忍びなさい」とか、「人生には悪いことばかりないから良いことを楽しみにして辛抱しなさい」と言われたところで、そんな言葉で納得できるものではない。なぜお互いの人生に不幸があるのか、それは私たちの現実的な問題である。クリスチャンになっても、やはり病気になったり、会社が倒産したり、大学受験に失敗することもある。 人生において、何か単純な理由で思うようにならないこともあれば、そうではないどう考えても合点がいかない理由のわからない不条理な人生に苦しむこともある。苦難の人ヨブはそうであったのではなかろうか。「不幸の原因と理由がわからない。苦難はまさにミステリーである」といえるだろう。 けれども、一つの解決の光は、やはり理由のわからない出来事というのは、神が敢えて許された「神の試練の時」ではないだろうか。アルベール・カミュの小説「ペスト」で、「疫病という不条理な災いを前にして、他人の痛みに無関心でいること」への強い戒めが語られている。それは、理不尽な苦難や試練という「苦い杯」を自らも味わい、向き合わなければ、本当の意味で他者の苦しみや悲しみを理解することができないという深い人間性を示しているといわれている。 ここで伝えている「苦き杯を飲まなければわからないことがある」とは、試練に遭遇しなければわからないことがあるということである。これが苦難の意味ではないだろうか。ナインの女にとって一人息子の死は、苦き杯であった。飲みたくない杯。しかし、飲まなければならなかった。 その目的は、彼女に神の栄光をお示しになられるためであった。でもそれは、単純に14節から16節の箇所に記されているような死人の甦りという結末による神の栄光ではなかったと思っている。確かに死人の甦りは奇蹟であろう。16節に「神をほめたたえた」とあるとおりだ。しかし、それだけが神の栄光なのか。そうではなく、ここで現わされた主の深い同情(あわれみ)こそ神の栄光ではないだろうか。 もしここで一人息子が甦ることがなくても、神の栄光は現わされたのではないだろうか。13節において主の驚くべきお姿に触れ、もはや彼女はそれまでのようにただ泣きじゃくるだけの人間ではなくなったのではないだろうか。この母は、この時、主の涙を見たのだ。あの権威あるお方が我を忘れるように、この貧しい一人の女に目をかけ、私のところに来てくださった。そして、「泣かないでいなさい」と語ってくださった。これは、私たちが泣く場所を主に見出すことができるということでもある。主の懐で泣くことができるのだ。 か弱いナインの女であるやもめの母は、主が試練を与えられた時、主は私を一人にしておかれたまま見過ごしにはなさらなかった。主は私のために、実存の深いところから五臓六腑揺さぶるように、心を引き裂いてすべての痛みを理解してくださった。「主は私の神、主は私の友、主は私の慰め主である」と、やもめ女は、燃えるようなキリストの愛を体験的に知ることができたのである。 彼女は、甦った我が子を抱きしめながら、そのことを喜び感謝すると同時に、神の栄光を見た新しい人として、多くの悲しみ痛み苦しむ人々のために、苦き杯を飲んだことのある母として仕えていくようになったのではないかと信じる。私のこれまでの小さな人生においても同じことが起こった。ハレルヤ!!! |
題「泣かないでいなさい」ルカ7:11-17
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