題「きたるべきかた」ルカ7:18-23

 ナインの女の息子の甦りの奇蹟により、「人々はみな恐れをいだき、『大預言者がわたしたちの間に現れた』、また『神はその民を顧みてくださった』と言って、神をほめたたえた。 イエスについてのこの話は、ユダヤ全土およびその附近のいたる所にひろまった」(7:16,17)とある。

 バプテスマのヨハネの弟子たちは、これらのことを全部ヨハネに報告した(18a節)。 「これらのことを」とは、ナインの死人の生き返りの奇蹟を意味している。この奇蹟の結果、イエスを神の権威あるメシヤとして魂の解放者として見るか、エリヤのような政治的な顧みを民に与える大預言者と見るか、ヨハネの内心にも少々混乱が生じたのではないかと思われるが、そうではなく、弟子たちの中にある不安を払拭させるために、直接主イエスから答えを聞くためにこう問わせたのである。「ヨハネは弟子の中からふたりの者を呼んで、主のもとに送り、『きたるべきかた』(メシヤ・救い主)はあなたなのですか。それともほかにだれかを待つべきでしょうか。と尋ねさせた」(18b,19節)と。 

 すると主は即座に答えられた。
①ご自身がメシヤであること(22-23節)。「答えて言われた、『行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、ツァラアト(らい病)はきよまり、耳の聞こえない人は聞こえ、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである』」。解説はいらない。

②ヨハネが旧約の預言者よりも優れた者であり、彼から新しい時代が始まっていること(24-28節)。「ヨハネの使が行ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、『あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。きらびやかに着かざって、ぜいたくに暮らしている人々なら、宮殿にいる。では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。』『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない(見よ、世の罪を取り除く神の小羊、と直接救い主を指し示した唯一の人。ヨハネ1:29)。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい」
 (彼までは、旧約に属する人であるが、新約の恵みに与って生まれ変わって神の子になる者の幸福や特権には及ばない。イエスの子どもたちが如何に素晴らしい者であることか示している)。

③新しい時代の人々の反応は、ア、「ヨハネのバプテスマを受けて神の正しいことを認めた」(29節)。「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」(マタイ11:12)。激しく求道すること。これは神が喜ばれる態度である。
イ、一方、「パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のみこころを無にした」(30節)とある。この時代の人々の態度は、何を聞こうが、何を見ようが、心が神から遠く離れていたのだ。

 「それは子供たちが広場にすわって、互いに呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたがたは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった』と言うのに似ている」(32節)とある。これはどういう意味であろうか。それは当時の人々が、バプテスマのヨハネには不平を言い、主イエスには不満を言うという表明である。

 「バプテスマのヨハネがきて、パンを食べることも、ぶどう酒を飲むこともしないと、あなたがたは、あれは悪霊につかれているのだ、と言い」(33節) 「また人の子(イエス)がきて食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う」(34節)。

  これらの民衆の不平不満の言葉が示すことは、彼らにとって自分たちに対する神の御心など重要ではなく、神を押しのけ自分たちの心を中心とすることに価値があるということだ。 つまり、わがままな自分勝手な態度なのである。

 しかし、正しい信仰とは、神の栄光が顕されたことを素直に認め客観的な事実による証拠としてしっかりと見て受け取ることである。

「イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられた」(21節)とある。

 これは、ある人々が言うような手品やイリュージョンでできるものではない。また、何かの新興宗教団体のように信者を呼び込むために、巧みにサクラ(偽りの客や協力者)を仕立てるような類のものでもない。正真正銘の神の御業なのである。

 イエスは、語っておられる。「もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを見て信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」(ヨハネ10:37,38節)と。

 私たちは、「知恵の正しいことは、そのすべての子(たち)が証明する」(35節)とあるように、事実に対して素直な「知恵ある正しい子ども」とされていることを認識し感謝しなければならない。パリサイ人や律法学者のように頑なであってはならない。

 さらに、もう一つの真理は、見ないで信じる知恵である。復活の主は、疑い深いトマスに、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は、さいわいである」(ヨハネ20:29)と語っておられる。神の御業を見て信じることも「知恵ある正しい子ども」であるが、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11:1)とあるように、見ないでただ信じることも肝要である。

 あぁ、皆さん。私たちにとって、現代の熱心なユダヤ教徒のユダヤ人のようにメシヤをなお待望する必要はない。
すでに、私たちは救い主イエス・キリストによって、事実として贖われ救われているのだ。永遠の命の希望は確かなものである。老いや病気や上がり下がる不安定な感情によって左右されるのではなく、信仰の確信をもって日々歩んでいこうではないか。
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