| 今日の箇所は、一人の女の赦しと愛の出来事である。美しい物語として紹介されている。ユダヤ教の熱心なパリサイ人のシモンが、ナザレのイエスの良き知らせを聞いて、イエスを招いて自分の家で食事を共にしたいと申し出た。イエスが食卓に着くと日本では考えられないことが起こった。 「するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家の食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った」(37-38節)とある。 他人の宴に招かざる客が入ることは、オリエント社会では珍しいことではなかった。ユダヤでも、ユダヤ教のラビ(教師)の教えを求めて来る者や、物乞いのために勝手に家に侵入することがあったようである。 この女は、たぶんカペナウムに住む「罪深い女」遊女であったのだろう。神学生の頃、この箇所を読んだ時この女は、相当悪い淫乱女であったのだろう、と勝手に決めつけていたが、当時の社会的事情が理解されるならば軽々に裁くことができないことがわかった。古代ユダヤにおいて普通の女性が遊女に身を堕としてしまうような一般的な理由があった。 当時、ユダヤの家父長制社会において、女性は父親や夫に養われる存在であった。女性は弱者であったのだ。そんな環境に身を置き生きている女性が突然一家の支柱を失い未亡人になってしまうこともあれば、誰にも頼らず独り身の貧しい女性の場合もある。そのような女性たちが生き延びるためにやむを得ず売春を行うケースがほとんどであったようだ。 彼女は過去において我が身を金で売って生きていかなければならない悲しい事情があったのであろう。しかし、その仕事は女の人格を蝕み心に大きな傷を残すことになりそれは決して消えることはなかった。女は長く自己像の乏しい劣等感の塊のように悶々と生きていたに違いない。 そんな時に、彼女はイエスに出会ったのである。主イエスが語る神の国と愛と赦しのメッセージは、どん底に身を置き生き繋いでいた女の心に迫ったことであろう。イエスから聞く福音は、これまで彼女が一度も聞いたことのないものであった。その内容は、旧約聖書の預言の言葉が裏付けとなり、やがて主イエスの十字架の贖いと救いによって彼女のそれまでの人生における罪と過ちと失敗は全部赦されることを知ったのである。それは、女にとってどんなに感動的な良き訪れであったことだろう。 彼女は罪赦された者として家に帰った。それは新しい人生の出発でもあった。その感謝と喜びは尽きることがなかったのではないだろうか。 何日経過したかわからないが、女はパリサイ人シモンの家に主イエスが来られることを知って、その食卓に紛れこんだのだ。 この時の女は、「『罪の女』であったもの」(37節)と記されており、過去形であるから、今は罪の女ではないのだ。彼女は、主イエスによって与えられた罪の赦しの迸る感謝の思いを何とかして表明したかったのである。 ユダヤの女性にとって尊い価値のある香油を惜しげもなくイエスのために注いだのだ。「イエスさま、有難うございます。心から感謝します」と。 ところが、ここに冷ややかな視線を女に向ける人がいた。シモンである。「イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、『もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから』」(39節)と。 他者の目には、なお彼女のことが罪の女に見えるが、イエスの登場によってもうすでに女の罪は過去のことになったのである。 そこで、イエスは譬え話(41,42節)を以て赦しと愛の関係を語られた。「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ(500万円)、もうひとりは五十デナリ(50万円)を借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」(41-42節)。女は、多く罪が赦されたので、多く愛する者とされたというのである。 47節は、誤解され易い、「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。これは、「この女の罪は多かったが、その多くの罪は赦されている。それは、その結果多くわたしを愛したことによってわかる」という意味である。 ここを読む時、原因と結果を反対にしてはならない。多く赦されたので、多く愛する者に変えられていくのである。 女の主イエスに対する愛の功徳が効果を表して彼女が救われたのではなく、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(50節)とあるように、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、多くの罪が赦されたことを先取りの信仰によって信じたので女は救われたのである。 私たちは、この女のように本当に罪が赦されたということに気づかないと大胆な行動に出ることは難しいのではないだろうか。自分の敵を愛するとか、赦すとか、さらには自分の人生を神のために捧げて献身するようなことは決して生まれてこないと思う。 「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。 それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(第一コリント6:20)。 |
題「罪の女と呼ばれた女」ルカ7:36-50
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