| 現在、世界中で起きている国家規模の武力紛争や戦争は、59件ほどあると国際研究データや調査が出されている。ウクライナ、イラン、ガザ、スーダンなどがその例である。 毎年、8月第一主日は、世界平和のために祈る日になっているが、何か祈ることに虚しさを感じているのは、私だけであろうか。実に、人間という生き物が、ほとほと罪深い存在であることを痛感させられている。戦争がこの世からなくなることがないからである。 さて、作家遠藤周作が、1957年「海と毒薬」を発表した。これは、太平洋戦争末期、九州の大学病院でなされた米兵捕虜の生体解剖事件を題材にした創作小説である。また作家森村誠一が、1981年「悪魔の飽食」(ノンフィクション)を発表した。日本軍の731部隊が中国で行ったとされる細菌戦兵器の開発や中国人、ロシア人、朝鮮人捕虜らに対する非人道的な人体実験の事実を暴いている。どちらも、実際に起きた戦争犯罪を背景に、人間の極限状態での恐ろしい罪とその狂気を告発している。 私たちは、二回の世界大戦の時代のようではなく、現在リアルタイムで進歩した映像技術により世界での悍ましき人と人とが殺し合う戦争の惨状を目の当たりにすることができる。戦争の罪深さは、戦場だけではなく、一般市民の日常生活を奪うだけではなく、社会全体を巻き込んで平和な人々の人間性をも破壊していくのだと思う。 かつて、私たち日本もメディアや国家の宣伝により、国民全体が熱狂的に戦争肯定支持者になってしまったことを知っている。 平和な時代ならば、理性的、良識的、抑制的に事を処することもできるのであろうが、特別な状況と環境と事情の中では、そのすべてが崩れ去って一同が阿修羅の如く敵対して容赦なく戦い争うのである。 この根底にあるのが聖書でいうアダム以来から受け継いでいる原罪(オリジナル・シン)であることを知る人は少ない。 現代の私たちも、戦争という国家的、民族的集団の狂気の中に入っていったならば、おそらくこれまでと同じことをするに違いない。誰が私だけは大丈夫と言うことができるだろうか。 戦争がなければ普通の人。しかし、いったん戦争になれば人が変わったように自分たちの国民こそ世界の正義の代表のように思い込む。そして、自分たちの腹が満腹するまで、人血を飲み、人肉を食らう。これは悪魔の飽食である。 なぜ、そのように悲しい人間、寂しい人間、惨めな人間なのだろうか。人類は世界の平和を口にし、平和を願い、平和を求め、世界の幸福を祈りながら、それほどまでにどうして自己中心なのであろうか。 聖書は、こう語っている。「あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起こるのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情(罪)からではないか。あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う」(ヤコブ4:1,2)。 私たち原罪を負う人間は心の底には、悪魔と化する恐ろしい性質がある。何か引き金が引かれると、突然のように、私たちを狂わせ、悪魔化してしまう。原罪はダイナマイトの破壊力をもっていて、もし人間がその欲望のままに生きていくならば、その人は必ず滅んでしまう。 そこから救い出される望みはあるのだろうか。救いの光はないのだろうか。救いはイエス・キリストの十字架にある。 「『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実(真実)で、そのまま受けいれる(全面的に、普遍的に)に足るものである。私は、その罪人のかしらなのである」(第一テモテ1:15)。 原罪から救い出されるお方は、イエスさま以外にはない。私たちは、この平和主日にもう一度しっかり神の言葉に立ち、世界の罪を覚え、世界に向かって、主の十字架の救いを宣べ伝える教会でありたい。 十字架から流れる救いの泉は、父なる神の涙である。人類の罪を赦すために御子を身代わりに十字架に処刑しなければならなかったところに、父の涙が流されたに違いない。 そして、主イエスの命賭けたとりなしがあった(ルカ23:34)。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と。凄まじいばかりの父なる神の審判を身代わりにおひとりで受けられた主は、私たちの救い主である。あなたの家族もその恵みに与っていただきたい。まず自分の罪の前に立とう。そこから赦しと救いを与える十字架を仰ごうではないか。 |
題「悪魔の飽食」ヤコブ4:1-10
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