| 1973年、ホラー映画「エクソシスト(悪魔祓い)」がヒットした。少女に憑依した悪霊と、自らの罪に苦悩する神父の霊的戦いを描いた所謂オカルト映画の代表作である。実話が題材になっているようだが、気持ち悪いおどろおどろしい映像に仕上がっているので、劇場で失神する人たちも出てきたようである。 そのイメージでこの箇所を読むと読者は的を外してしまうだろう。ゲラサ人の悪霊に憑りつかれた男のことを特殊効果撮影技術(SFX)で作りあげた恐ろしい形相のような想像は不要のことである。 悪霊に憑かれている人とは、文字どおり悪霊に支配されている人という意味だけではなく、現代的にみると精神的病に罹っている人のことでもあろうかと思う。そこに人生において予期せず内面的な疾患を得て苦悩する人たちの悲しみと痛みをみる。しかし、そのような病でないにしても、レギオン(六千人部隊)と呼ばれたこの人と同じような生活をしている人は意外に多いのではないだろうか。この男は、死人の遺体が葬られている墓場に住んでいた(8:27)。「家に居つかないで墓場にばかりいた人」とある。 このように、ある人は健全な社会生活ができないでいる。家庭は小さな社会の一つであるが、夫婦関係、親子関係、嫁舅姑関係が悪く、いつも喧嘩と言い争いばかりであるとすれば、墓場のような生活といえるのではないか。また、ドメスティック・バイオレンス(DV)や児童虐待、弱者に対しての身体的暴力・精神的暴力・性的暴力・経済的暴力なども隠れて見えなくされているが、現在そのケイスが多くあり、これも家庭での墓場であろうと思われる。さらに、この男は悪霊に支配され、長い間着物も着ず裸であった。そして、何度も悪霊が彼をひき捕らえたので、彼は鎖と足かせとでつながられて看視されていた。しばしば悪霊は彼を興奮状態にして人力では考えられない異常な怪力で鎖と足かせを断ち切っては、荒野を連れまわしていたのだ(8:27,29)。 これは、身体と心の自由がきかない人、自分で決めたように生きていけない人ではないだろうか。わかってはいるけれども、それができない。何かに束縛された人生がそこにある。現代人も同じであると思わされている。主イエスは、そのようなゲラサ人と出会われたのである(8:27)。 すると、イエスが汚れた霊に、その人から出て行け、とお命じになられた(8:29)。男は、イエスがどのようなお方であるのかわかっていなかった。それに対して「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係りがあるのです。お願いです。わたしを苦しめないでください」(8:28)と言っている。レギオンに支配された男は、イエスに対する考え方が全く間違っていた。それゆえに普通の社会的、健康的な生活ができなかったのである。 彼は、「いと高き神の子イエスよ」と呼びながら、「わたしを苦しめないでください」と主を退けている。まるで主イエスが人に苦しみを与えるように語っているのだ。 主イエスは、人を救うお方である。人を苦しめるお方ではない。しかし、ある人々には、イエス・キリストのことをそのように捉えることがあるようだ。「神も仏もあったもんじゃあない。結局、人間は苦しんで生きていくしかない」と。 レギオンは「大勢」であるので、この男の意識を混濁させていたのだろう。主は、彼に正しく自己を認識させるために、30節で、「なんという名前か」と尋ねられた。「名は体を表す」と言われているが、相手の名前を知ることはその人を牛耳ることをも意味している。 主は、この男を虜にしていたのが複数の悪霊であることを知られた。主はレギオンを権威の御手で縛り付けることがおできになられる。イエスはレギオンを好きなように扱うことができるのだ。しかし、悪霊どもは悪魔・悪霊どものために用意されている究極の監獄「底知れぬ所」(審判の日まで悪霊どもを閉じ込めておく場所)に行くことを恐れていたので、主の権威を認めてひれ伏し別の所に行くことを懇願した。 丁度、そこに豚の群れが飼っていたので、悪霊どもは、その豚の群れに入ることを願いそれが認められると、男から出て豚の群れに入っていった。すると今度は豚の方がそれに驚いて崖から湖になだれを打って駆け下り、おぼれて死んでしまう(8:31-34)。 「人々はこの出来事を見に出てきた。そして、イエスのところにきて、悪霊を追い出してもらった人が着物を着て、正気になってイエスの足もとにすわっているのを見て恐れた。それを見た人たちは、この悪霊につかれていた者が救われた次第を、彼らに語り聞かせた」(35,36節)とある。人々は、一応主の権威を認めて畏敬の念を持ちながらイエスと救われた男を見ていたのだろう。 しかし、結果的に、この地の人々は、一人の幸せな救われた男よりもこれまで自分たちの豚による収入を得ていた経済の方が心配になりたくさんの豚をイエスのゆえに失ったことに憤慨してイエスを追い出した(37節)。何ということだ。 まさに、「背に腹は代えられぬ」という、目先の重大な損害や恐怖を避けるためには、救われた男などどうでもよいという心理の方が勝ってしまったのだ。実は、群衆もレギオンの虜になっていたということである。 さて、救われて自由になった男は、主イエスによる自らの救いを感謝し主に従うことを願うが、イエスはそれを許さず、男に、「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」(39節)と彼を送り出した。「彼は去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめた」とある。これは、自分が神から受けた救いの体験を家族や周辺の人々に証しすることを促している。そして、男はそのように行ったのである。 主が私たちのために成し遂げられ救いは、「小さなこと」ではない。「大きなこと」である。一時的に人生が支えられたとか、慰めになったとか、助けになったとかいうものではない。 使徒パウロはこう語っている。「あなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権を持つ君、すらわち、不従順の子らに今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉の思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生まれながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは、恵みによるのであるー」(エペソ2:1-5)とあるとおりである。 私たち一人ひとりが、この主イエスが与えてくださった良きもの(永遠の生命・地上では神共にいます人生)を感動をもってしっかりと信仰によって受け取って、「その御救い」を、「家に帰って、神があなたにどんな大きなことをしてくださったか」を語り証しするものでありたい。あなたは如何か。 |
題「大きなこと」ルカ8:26-39
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