1991年の「活水の群」御殿場研修会の特別講師として、ミッション・エイド・クリスチャン・フェローシップの牧師、関根一夫先生をお迎えしたことがあった。若さみなぎる伝道者で、大きなバイクに乗って会場のYMCA東山荘に来られたことを覚えている。また詩篇23篇からのメッセージは印象的で忘れることができない。
この関根先生は、妻の神学校の先輩で、豪州のサースオーストラリア・バイブル・カレッジで学ばれて帰国後、ユニークなお働きを展開してこられた。その先生が、最近、新刊の著書を出された。タイトルは「いてくれてありがとう―介護家族の話をひたすら聴き続けた牧師が伝えたいこと」(いのちのことば社)である。
これは、長年、牧師としてカウンセラーとして認知症の介護家族に寄り添い、悩みを聴き続けてきた関根先生が、その体験をまとめたものである。テレビ福音番組「ライフ・ライン」にも出演されてその本の紹介をしておられた。youtubeでも観ることができるので必見である。その中で、関根先生の作詞で岩淵まこと氏作曲の「いてくれてありがとう」が、弟宣義氏の独唱により流された。とても感動したのでここに紹介したい。
「いてくれてありがとう」
いてくれてありがとう こんな私と一緒に いてくれてありがとう あなたのほほえみ 言い尽くせない 感謝を込めて いてくれてありがとう
いてくれてありがとう 涙流したときにも いてくれてありがとう あなたの励まし 言い尽くせない 感謝を込めて いてくれてありがとう
実は、私は31歳の頃、兵庫県姫路市にある日本キリスト教団姫路福音教会に副牧師として赴任し、翌年主任牧師となった。歴史と伝統のある大きな教会を働きの場所として与えられたのであるが、ご高齢者の方々が多くおられてその出会いとふれあいにより大切なことを教えられた。
ある長年小学校で教師をしてこられたご老人の入院中、お見舞いをさせていただいた。ご夫妻で信仰生活に励んでいらっしゃって共に歩んでこられたようで、たくさんの思い出を語ってくださった。また夫のことが気がかりで心配していること。自分のことも年を重ねてどんどん衰弱して、もうこのままこの病院で逝ってしまうのではないかと、とても不安であることを述べられた。
そして、最後に言われたことが「先生、頼んだよ。私のこと主人のことも頼んだよ。頼りにしとるからな。後のことは任せたからな」と。私の手を両手でしっかり握って上下に振りながら懇願をするように話されたのである。しかしながら、未熟な青年牧師は、その意味することをあまり理解していなかった。私は、その老夫婦二人が召された時は、姫路福音教会でお葬式をお願いしますね、と言っておられるのだろう、と受け取っていたのだ。赤面の至りである。
でもそんなことではなかった。「先生、私たち老人は、年衰えて徐々に何にもできなくなる。今も教会の奉仕もしたくてもなにもできない。身体も精神も老化によってどんどんいうことを効かなくなる。教会の他の人たちには、迷惑をおかけするだけだ。それがとても心苦しい。申し訳ない。こんな年寄りでも教会の交わりにいてもいいか。生産性のない生きているだけの人間なんやけど、それでもいいか。もしそれでいいなら、どんなに弱っても衰えても、最後まで神さまを信じる信仰をもって生き抜いていくことができるように、見守り支えてくれるか。自分でも自分のことがよくわからんようになっても、見捨てないで最後まで祈ってくれるか。イエスさまのところに行くまで教会の交わりにおいてくれるか」
実はそのような意味で、「先生、頼んだよ」と言っておられたのである。私は、姫路での16年間の働きにより、どれだけのことがご高齢者の教会員の方々にできたかわからないが、ある年は一年間に十人以上のご老人がお召されになられたこともあった。牧師として、悔いの残る関わりも何度もあったことを思い出す。
現在、自分自身が70代を目の前にして、尚、教会員の何人かのご老齢者の方々を天にお送りするまで、お仕えしなければならない。それは、牧師の大事なミッションでもある。「存在は奉仕に先立つ」と言われるが、本当にそうであるならば、もっとご老齢者の教会員に対して、「いてくれてありがとう」と言うべきではないかと思わされている。そのような思いで心を伝えていくならば、きっと伝えられた方もこちらに「いてくれてありがとう」と返してくれるのではないかと思う。そこに愛し愛される教会の交わりが確かに証されていくのである。
高齢者や認知症の方々の必要に応えていく、人と人との関わりは自然に生まれてくるものではない。お互い関わる側にいる者が、主のサーバント(僕)として感性を育てていくことではないだろうか。ある大学の社会心理学の学者が感性には三要素があると言われている。それは、①気づき。②感動。③行動。これをご老人の方々に仕えていくことに適用するならば、まず、その方を見て、必要に気づき、存在に感動し喜び感謝し、そのままで心で抱きしめてあげることではあるまいか。
難しいことではあるだろうが、「いてくれてありがとう」の心があるならば、神さまの助けもいただきながら実践することができるのではないだろうか。これはすべての人間関係にも当てはまることを思わされている。
