クリスマスの降誕劇のことをページェントというが、幼き頃の記憶がある。それは、キリスト教幼稚園の年長組の年、降誕劇に出演した。それもイエスさまの養父となるヨセフだった。思い返せば幼稚園時代のイベントのことを覚えているが、先生方にあてがわれてよく劇や踊りを担当した。しかも重要なお役をもらっていたようだ。我ながら特に可愛かったのではないかと思う。ところが、大人になって園長先生に訊いてみたことがあった。いい返事を予想して、「園長先生、僕がページェントのヨセフの役をしたのは、幼稚園の中で一番可愛い男の子であったからではないですか?」と。すると、「いやぁ あれはねぇ。あなたが幼稚園を毎日休まずちゃんと登園していたからよ。休んでしまうと練習できないからね」。昔の吉本新喜劇ではないが、肩がガックンとなった。ちょっとだけがっかりしたが、未だに自分の考えを変えようとは思っていない。
さて、米国のある村の小さな教会での教会学校の降誕劇のお話を聞いたことがある。ある年の12月のはじめのこと。クリスマスの日に毎年行われる、イエス・キリストの誕生劇を、その年は子どもたちが担当することになっていた。そこで、教会学校の先生たちは、子どもたちを集めて、その劇の相談をした。そして、役割を決めたのだ。マリアが決まり、ヨセフが決まり、東の国の博士たち、羊飼いたちが決まった。天使たちや家畜たちも決まった。こうして、子どもたちは全員が自分の役をもらった。ところが、先生たちは、知恵遅れの子どもが一人役からもれていたことに気づいた。すぐに相談して、その子のために役をつくった。それは、馬小屋のある宿屋の主人の役であった。語る言葉は一言葉、「だめだ。部屋はない」。そして、後ろの馬小屋を指すのだ。
男の子は、それでも喜び嬉しそうにしていた。(僕もイエスさまの劇に出るんだ) 男の子は、それ以来一日何十回、何百回もくりかえし練習した。「だめだ。部屋はない」そして、指をさす。彼は来る日も来る日も練習した。さぁ、待ちに待ったクリスマスの日がやってきた。教会の鐘が村の隅々にまで響きわたり、クリスマス礼拝の時間を知らせた。田舎の教会は、たちまたいっぱいになった。プログラムが進み、いよいよ子どもたちの聖劇である。そして、その劇も最後の場面を迎えた。長旅で疲れ果てたヨセフとマリアが、とぼとぼと歩いて、ベツレヘムへやってきた。陽はどっぷりと暮れている。そして、あの男の子が立っている宿屋にたどり着く。「すみません。私たちを一晩泊めてください」 さぁ、男の子の番だ。お父さんも、お母さんも、教会学校の先生たちも、固唾をのんで、祈りの姿勢をとっていた。 (神さま、うまくできますように!)
それに応えるように、男の子は大きな声で言った。「だめだ。部屋がない」と。そして、後ろを向いて、馬小屋を指さした。 (やれやれ、よかった。じょうずにできた) みんな胸をなでおろした。しかし、その直後のことだ。馬小屋に向かって、肩を落として歩いていくヨセフとマリアをじっと見送っていたその男の子が、突然、ワァッと声をあげて泣き出したのだ。男の子は走り出した。そして、泣きながらマリアさんにしがみついた。
「マリアさん、ヨセフさん、馬小屋に行かないで。馬小屋は寒いから。イエスさまが風邪を引いちゃうから、馬小屋に行かないで、馬小屋に行かないで・・・」
びっくりした教会学校の先生たちが舞台に飛びあがった。そして、マリアさんにしがついて泣いている男の子を引き離したのだ。大切な劇は、だいじなところで、中断してしまった。ところが、長い村の歴史の中で、これほど感動的なクリスマス劇は、後にも先にもなかったと言われるようになったという。
知恵遅れの男の子について、人はこの世の常識であれこれ言うかもしれない。けれども、この子はこの劇を演じるにあたり、クリスマスに対する純粋な美しい心を持っていたのだ。本当のクリスマスにとって一番大切なイエスさまのことを思い、イエスさまのことを何よりも大事にしている。それこそ、真のクリスマスの迎え方である。
この子は、大人のように教会のクリスマスのイベントをこなすために忙しく動きまわるのではない。素晴らしいはずのクリスマスが、「クルシミマス(苦しみます)」になっていない。劇ではあるが、そこでキリストに出会っているのである。「客間には彼らのいる余地がなかったからである」(ルカ2:7)とあるが、一人ひとりが救い主を我が心の部屋に迎えることができるように祈りたいものである。この実際にあったお話は、私たちに、今年のクリスマスを迎える態度、姿勢について考えさせるのではないだろうか。メリークリスマス!!!
