1890年(明治23年)4月4日、英国人であるパトリック・ラフカディオ・ハーン(1850年6月27日、アイルランド系・ギリシャレフカダ島生まれ)が、横浜港に上陸した。40歳であった。一方、同年11月24日、同じ英国人であるバークレー・フォーエル・バックストン(1860年8月16日、イングランド・エセックス生まれ)が、神戸港に降り立った。30歳であった。
ハーンは、新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、日本研究者、英文学者であった。1896年(明治29年)、日本国籍を取得して「小泉八雲」に改名。妻小泉セツから聞いた日本の伝説や怪談、日本文化を紹介した『知られぬ日本の面影』などの作品で知られており、明治の時代を世界に紹介する上で大きな功績を残したといわれている。
彼の日本での働きは、1890年8月30日、松江の島根県尋常中学校に赴任したところから始められたといえよう。この度、NHKの朝ドラで、ハーンの妻、小泉セツが主人公で、「ばけばけ」が9月下旬から放送されている。原作がなくフィクションのドラマである。個人的に小泉八雲というと、中学時代に旺文社の小泉八雲集の英和対訳小説を読んだことがある。「怪談」がおどろおどろしかった。但し、英語ではなく日本語の物語に引き込まれたことを印象的によく覚えている。
この日本大好き人間ハーンのことが、愛読書「バックストンの弟子たち」(都田恒太郎著)に記されたいた。「1891年(明治24年)四月、バックストンとその一行は、山陰道の松江に赴任した。松江は当時すでに人口五万ほどの山陰第一の都会であった。旧幕時代からの城下町で宍道湖に臨みはるかに大山を仰ぐ風光明媚な都市として有名であった。バックストンが日本へ渡来した同じ年に、イギリス人の英文学者ラフカディオ・ハーンも、松江中学校の教師として赴任して来た」(P.101)とある。
一時期にしても、10歳年下のバックストンが松江のどこかでハーンと触れ合ったことがあったのかもしれない。いや、もしハーンがバックストンとの接点が全くなかったとするならば、こんな残念なことはないと思う。なぜかならば、同じ英国人である者同士がグレイト・ブリティンから見て遥か極東と呼ばれる日本のしかも西日本の松江で、初対面することができたならば、こんな不思議な出会いはなかった。それは、ハーンの救いのチャンスになったかもしれなかった。
さて、ハーンは、たいへん苦労人であった。幼少期不幸な境遇において育った。母の病のゆえに両親が離婚し、彼は両親にほとんど会うことなく、父方の大叔母サラ・ブレナンに預けられ、厳格なカトリックの教義で育てられた。そのことで宗教的教えの人間疎外を経験したのか、大叔母に育てられたことで、少年時代、権威主義を極端に嫌うようになり、ハーンはキリスト教そのものも嫌いになってしまった。加えて、16歳の時、友人との遊戯中に左目を失明した。17歳には父の突然の死。さらに大叔母の事業の失敗での破産。ハーンにとっては、絶望の淵に投げ込まれたようなものであった。「神が本当に存在するならば、なぜ次から次へと自分に不幸が襲ってくるのか。神なんていない。いるはずがない。」と、心の中で何度かつぶやいたことがあったのではなかろうか。
その後、単身で渡米。赤貧生活を余儀なくされるが、彼は長年の多くの苦難を経て、やがてジャーナリストとして認められるようになり、文筆で生きる準備がなされた。ハーンの来日してからの働きは、人間的な意味において大いに成功者であったといえる。日本文化を海外に紹介した作家としての功績。日本で教鞭を執り多くの著作を残したこと。そして、その背景にある妻小泉セツとの出会いと彼女の才能と賜物と愛による支えがあったからこそ、名を成した小泉八雲がつくられたといえるのではないだろうか。彼の人生は短かった。1904年(明治37年)9月26日、心臓発作で54歳の生涯を終えた。(ウィキペディア参照)
もし、ラフカディオ・ハーンが、松江でバークレー・フォーエル・バックストンに出会っていれば、また、バックストンの内にあるキリストの香に触れることができたならば、ハーンは、過去の宗教的な内面の傷が癒されていたかもしれない。
すでに、他の文章でバックストンについてはご紹介してきたが、改めて見ておきたい。バックストンは、1890年、CMSミッション(英国国教会海外宣教局)の宣教師として、英国イーズニーのバックストン・ファミリーの霊的、経済的サポートを得て総勢9名で来日した。英国聖公会の司祭、牧師、神学校教師、バックストンとその弟子たちは、日本の福音派の源流の一つ、松江バンドを形成し、後に各教派と各教団、教会へ派遣され日本宣教のために貢献した。
バックストンは、来日して一年間、神戸で日本語を学んだ後、日本で一番伝道の過疎地と言われていた山陰の地、島根県松江に導かれて行った。語学学校では首席で卒業したようである。神戸から松江までの行程は、汽車を乗り継ぎ、人力車を雇って山を越え、山中で野宿し、悪名高き「四十曲がり」の難所を通っては大変な道のりとなった。「神戸から松江までの旅は、イギリスから日本にやってきた時よりも大変でした」とご本人がいうほどであったそうだ。
松江では、赤山という場所に居を構えて伝道を開始したが、なかなか困難な伝道となり地元の住民からの迫害は、半端なものではなかった。だが、バックストンは、日本文化に溶け込み、日本人の魂を救いに導く一時のために謙遜の限りを尽くして、労し働き仕えていった。あの英国の貴族出身の青年伝道者は、英国紳士の高価なスーツを脱ぎ去り、日本人の粗末な着物を身に着け、自ら大八車(昔の人力荷車の意)を転がしながら、あちらこちらで汗と埃にまみれて福音を宣べ伝えていったのだ。その精神と姿勢は、やがて地域の人々の心の琴線にも触れることになった。
当時の宣教師の多くは、福音を伝達する際、キリスト信仰だけではなく、自国の文化や習慣を押し付け、日本の文化や良きものを否定するような指導をしていたようである。日本の「二つのJ」、Japan(日本)とJesus(イエス・キリスト)を愛する預言者内村鑑三は、そのような宣教師を批判していた。しかし、彼が、バックストンについてこう評している。「彼は、人類の華である。人間というものの一つの模範である」と。内村鑑三は、バックストンの人格に触れて感銘していた。人類の華と表現するほどに尊敬していたのである。バックストンの内に彼はキリストのかたちを見たのであろう。
ラフカディオ・ハーンが、もし松江で「人類の華」バークレー・フォーエル・バックストンと出会い、その人格に触れ、その内にあるキリストのいのちに何かを感じることができたならば、過去の少年の頃に体験した人生の悲しみ、痛み、苦しみが癒され、かつての既成宗教カトリック教によってもたらされた精神的ダメージも取り除かれたかもしれない。朝ドラの「あんぱん」が終わって、「ばけばけ」が始まり、今、そんなことを思いめぐらしているところである。
「彼(キリスト)はわれわれのために傷つけられ、われわれのために(十字架の出来事)砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめ(身代わりの死・人類の罪の贖い)をうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされた(罪の赦しと内面のいやし)のだ」(イザヤ53:5)
