「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。」(イザヤ51章1節)とあるが、信仰の原点を振り返ってみた。この御言は、直接的にはバビロン捕囚として苦悩の中にあるイスラエルの民に向かって語られている。あまりの苦しみに神ご自身を見失いそうになっていた民に過去の恵みを思い返すように促されたのである。自分たちがどこから救われたのか、救われる前はどうであったのか思ってみよと語っておられるのである。
1974年の春、芸術学部(美術科)を目指す浪人生になった。一人で田舎から上京し杉並区阿佐ヶ谷の予備校に通いながら学科と技術の勉強をすることになったのである。まさに心機一転新たな出発となった。しかし、まさかこの浪人時代に主イエス・キリストの御救いに与ることになるとは想像だにできなかった。
のんきな受験生は、夏休みに郷里に帰っていた。久しぶりに鴨島兄弟教会の礼拝に母と共に出席した。その時、受け取った週報に、めぐみ幼稚園の園児時代から小学6年生まで教会学校でお世話になっていた伊藤榮一先生が、9月21日、22日の両日東京の板橋北教会(ベウラ教会)で特別集会の講師として招かれていることが記してあった。伊藤先生は、70歳になって教会の主任牧師を引退し名誉牧師となられ自由に全国各地で巡回伝道をしておられたのである。
夏休みを終えて東京に戻って、9月20日、集会のことを会場教会に問い合わせると2日間の予定が変更され22日の日曜日夜の1回の集会になったことを知らされた。よくぞ予め確認したものだと思いながら、初めて行く板橋区の教会を地図で探した。国鉄中央線で荻窪から池袋に移動し東武東上線に乗り換えて板橋駅で下車する。そして十字架の印がある教会の場所まで徒歩。地図上ではいとも簡単に示していた。ところが、田舎の青年には厄介であった。しかも昼と夜ではわかりづらい。早めに下宿を出たのに集会時間になってもぐるぐる同じところを迷いの森に入り込んだように歩きまわっていた。
そうすると焦りも働いて前方から高校生らしい学生たちが歩いてきたので、ダメでもともと、彼らに教会の場所を聞いてみた。すると何とその一人が教会の息子を知っているらしく、教会の近くまで案内してくれたのだ。何という時宜にかなった助けか。ありがたいことに開会時間はすでに過ぎていたにも拘わらず事情で集会はまだ始まっていなかった。驚いたことに小さな教会は人で一杯であった。遅刻して気まずさがあったが、受付で聖書と黄色いソングシートを手渡され、一つだけ空席であったパイプ椅子に案内されて座った。
前方の聖壇を見るとあの懐かしい背の低いおじいさん先生が講壇のそばにおられた。そして、その教会の牧師石川喜一先生の司会で集会が始まった。そこにいることを本当に心から喜んだ。
この集会で語られた御言は決して忘れることはできない。それは、ヨハネによる福音書8章12節、「わたしは世の光である。わたしに従って来るものは、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」であった。この一夜の集会での伊藤先生の体験的福音メッセージは、ほんの一瞬の間のように思われた。それは、顕著な主の御臨在があったからではないだろうか。
15歳の榮一少年は、名古屋の広小路にある家の教会であった共同伝道館の伝道集会に導かれた。その日の説教者はR・E・マカルピン博士であった。柔和で温厚なお顔のおじいさんは、日本語で実にわかり易く、ヨハネ8章12節から福音を宣べ伝えられました。それが生まれて初めてのメッセージであった。
「キリストは光としてこの世界に来られた。あなたは神に愛されている。どんな暗い生活をしている人でも、この光であるお方を心に信じて受け入れるならば、あなたは光を得て光の子どもになれる。」 心の光を求めていた榮一少年は、それが欲しかった。メッセージの締めくくりの時、マカルピン師は、主を受け入れる祈りを導かれ、伊藤先生はその夜キリストを受け入れ救われたのである。この伊藤先生の救いの体験と自分が重なった。
何かこの日、自分も15歳の榮一少年と同じように神によって導かれたことを感じたのである。まさに追体験となった。その夜、伊藤先生は、マカルピン師がなさったように会衆に信仰を促した。私は躊躇なくキリストを主として信じることができた。幼き頃の信仰はリバイブされたのである。さらに、その夜、私は涙がとまらず、救い主を伊藤先生のように宣べ伝える働きをしたいと願うようになった。それは一時の感情ではなく本心からであった。そして、1975年春、関西聖書神学校に入学が許されて献身者として訓練を受けることになった。
私のクリスチャン人生は、よく祈られていた「活水の群」のベウラ教会から始まったのだ。そして、それから49年が経過しようとしている。ただただ感謝である。イエス・キリストこそこの世の光である。
