「謙遜という人生のテーマ」

 アウグスチヌスは、「キリスト教の第一の徳目は何か」と問われた時、「それは謙遜である」と答えた。「では第二は何か」と問うと、「第二も謙遜である」と答えた。さらに「では第三は何か」と問うと、「第三も、その次も謙遜である」と答えという。

 お互い信仰者として謙遜を身につけるということはとても重要であることを思わされる。ところがこれがたいへん難しい。私たちは、新聖歌の「キリストにはかえられません」を歌いながら、キリスト以外のものに心奪われ、自分が評価され誉められることを求めているのではないかと思わされることがあるのではないだろうか。そんな自分に悲しみをさえ覚えることがある。

 私にとって謙遜な牧師と言えば模範になる先輩が複数おられるが、神学校の時に憧れていたのは、元ラジオ牧師(世の光)の故羽鳥明先生であった。羽鳥先生は、超教派で全国各地で名説教家として主に用いられたお方であられた。

 ある集会で、羽鳥先生は、「友人の本田弘慈先生(日本福音クルセードの設立者)は、私のことを買いかぶって、羽鳥先生は謙遜だ、などと言ってくださるけれども、私は自分ほど野心家で傲慢な人間はいないと思うぐらいに自分のことを知っています。それだから、お恵みから落ちないように、日々主と人の前に遜っていかなければならないと祈らされているのです」と言われたことがあった。非常に印象的に覚えている。私は、そのお言葉を聞いて何と謙遜な先生だろうと思った。

 実にイエスさまこそ謙遜の模範である。私たちは、キリストに倣いて人生のテーマとして謙遜を求めていきたい。

 詩人故河野進牧師がこんな詩を残しておられる。

 主は問われる 「何を望むか」「謙虚を」「次に何を」「親切を」「さらに何を」「無名を」「よかろう」 

 そのような祈り手でありたい。

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