「魅力ある生き方」の中に、「三流の生き方」があることを知ることができた。「三流」とは、一流二流のそれではなく、魅力ある人は、三つのものを流す、という。それは、汗を流し、涙を流し、血を流す、というのである。
イエスさまは、その点において完璧な「三流人生」を過ごされた。私たちも模範とするべきところである。主は、人間的には、大工(石工)の息子として育てられた。しかも、早く父ヨセフを失い、家族の生計を支えた長男としての立場もあった。
手にまめをつくりながら、厳しい労働の訓練に汗を流したことであろう。当時のユダヤ人ならば、息子にたといどんなに世界が激変しても生きていけるように、必ず手に職をつけさせた。イエスさまもその例外ではなかったはずである。
この激しい労働の中で身につけた体力が、後日の宣教活動に役立ったと思われる。またイエスさまは、人々の悲しみや痛みに涙を流されたお方であった。使徒パウロも、度々「涙を流して語る」と言っているが、主はラザロの死のときだけではなく、いつも涙の祈りをなさっておられたのではないだろうか。またイエスさまは、血を流されたお方であった。十字架によ る刑場では、尊い神の子キリストの血潮が流し尽くされたのである。
それが私たちのお仕えする主である。彼は最後の最後までご自身のいのちを削って生きてくださった。キリスト者とは、その名のように「キリストに属する者」としてキリストの生き方に倣う。それは、ある意味で特権でもある。迫害時代、初代教会において誰が被害者意識をもって殉教していったであろうか。彼らは決して敗者ではなかった。まさしく人生の勝利者の聖徒として天に凱旋していったのである。
現代に生きる教会はどうであろう。私たちも小キリストとして、自力の熱心さではなく聖霊の助けと導きにより、何かに労することを惜しまず、汗を流して、主と友のために涙の祈りの人となり、いのちを削って生きていこうではないか。
