題「どうしたら神がわかるのか」マタイ11:25-27

 クリスチャンの祈りの課題としてあげられる一つは、どうにかしてどなたかにキリストを宣べ伝え証しすることであろう。ところが多くの場合は難しく思われる。話は聞いてくれてもその人の信仰にはなかなかならないのである。

「そういう宗教をあなたは信じているのですね。私は私で他の宗教を持っているのですよ」と返ってくるのかもしれない。それ以上進まないことに困惑してしまうこともあろうし、がっかりするのではないだろうか。
 ではどうしたら神をわかっていただくことができるのだろうか。結論から言うと簡単な方法や手段はないのである。

 一般的にアメリカの場合、米国人の精神的バックグラウンドに聖書があるので、基本的な情報は子どもの頃からある程度聞いて知っている。神も「God」という唯一神のイメージを自然に身につけているといえよう。神のことを一から説明する必要はない。ある意味でダイレクトに聖書の真理をぶつけても困り果てることはないであろう。実際、現在も米国の国民の半数以上の人々が、進化論ではなく創造論を信じているのである。
 
 日本の場合はそうではないので、聖書を語るにしてもこちらが丁寧に説明して解きほぐして、神についてお伝えしないとなかなか受けとめてくださることはないだろう。そんな訳で、一般のクリスチャンがどなたかに伝道したり証しをするためには、下準備がどうしても必要になるのではないだろうか。

 まず、私たちは、ある程度基本教理(聖書・神・人間・罪・救い・キリスト・教会・生活・終末)や比較宗教学(神道・仏教・新興宗教・イスラム教・ユダヤ教等)について学んでおいたほうがよいと思われる。とにかく自分が何を信じ確信しているのか、またそれによってどうなったか、またクリスチャンになって何を生きがいとして歩み何を目指して生きているのか証しするのである。

 さらに多くの方々はどこの宗教であってもいいと考えているので、ご本人を尊重しながらも、本当にそれでよいのか問いかけることも必要であろう。一般的に仮説である進化論を信じて肯定していると、その延長線上で思考する時いろいろな宗教があってもよいことになる。そこにこちらの創造論の証しで、すべての生物と物質の造り主である創造主から人間を見るならば、いろいろな神々があることに疑問を投げかけることもできるのではないだろうか。

 今はインターネットで正しい情報を得ることができるので学ぶことをお勧めしたい。異端やカルトの教えに注意していただきながら学んでいただきたい。

 その上で、その方にとって必要なことは、まず神に近づく道を知らねばならないのだろう。
 ①その道は知的な道ではない。
 ②道徳的な道ではない。
 ③自分で神に至る道を考え出すこともできない。

 その理由は、人間の考えと神の考えとは調和しないからだ。どんなに素晴らしい知性も根本的に神に敵対している。私たち人間は、己が知恵と力で神に近づき帰ることはできない。なぜならば、人間は神に対して背を向け生きている霊的な反逆者なのである。そのことを聖書は神の前に「罪人」という。
 私たちは、人間の考える良かれと思う道を通ることによって神の元に帰ることができないのである。それは、品性そのものが原罪によって汚されているからだ。

 実は神に帰る道は一つだけである。「良く聞きなさい。心を入れかえて(悔い改めて)幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(マタイ18:3)とある。これは、イエス・キリストのご要求であり祈りでもある。また父なる神のみ心なのだ。
 マタイ11章は主の伝道旅行の出発の記事であるが、25節から27節のところで主は父なる神に感謝しておられる。
 「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵ある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした」と。

 神は単純で心開いた者たちに福音(救い)を啓示される。しかし、人間的知恵と知識を誇りにしてキリストを拒否する者からは福音は隠されているのだ。
 それだから、神に帰るためには、このように悔い改めて回心しなければならない。そこから始めるのである。しかし、回心の意味がわからない場合もある。回心とは、生き方の方向転換、心を入れ替える、悔い改める、生まれ変わること。幼子のように、単純に、十字架の死と復活により、人間の罪が赦されきよめられることを信じる信仰を促すのである。回心は、知性の全部、感情の全部、意志の全部を含むものである。知情意の全部をもって悔い改めるのだ。

 柘植不知人師の回心の記録がある。神戸の湊川の天幕伝道において英国の宣教師ウィルクス師の説教を聞いて、そのお話の途中キリストを信じる決心をされた。説教後、悔い改めの導きを得るために前に進み出て、ウィルクス師が祈られた時、「感極まって聴衆の前にもかかわらず大声をあげて泣いた」とある。「全く罪の赦しと、神の子になったとの確信に満たされ、感涙に咽びつつ立ちあがった」とある。
 その時の経験を「私の心に響いた確信は、40年間全く罪のために犠牲にして悪魔のために尽くしてきたのであるから、今度は神のために正義のために一切を犠牲にしようと決心した。その時、聖書のことも献身のことも何も知らなかったが、紀元前と紀元後というふうに全く一大転機の時であった」と語っておられる。

 柘植師の救いは、このように明確な体験となった。だが回心とは、小さな子どもでも経験できるほど、単純なものである。ヨハネ6:37「わたしに来る者を決して拒みはしない」と主イエスは招いておられる。
 私たちが救いを願い祈っている方々が、益々神を知り、罪がわかり、信仰を持つように篤く祈っていこうではないか。
 
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