| 私たちの救い主であられるイエス・キリストは、公生涯の出発において、「さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』。」(ルカ3:21,22)とあるように、神の罪なき小羊であるお方が、私たち罪人と同じ立場に立たれた。 その後、主は聖霊に満ちて荒野で40日間、悪魔に試みられなければならなかった。平行記事のマタイ4:1によると「イエスは御霊によって荒野に導かれた」とあるので、これは父なる神の深い御心であったのだ。公生涯に入って行かれる主イエスは、ここでイエスの主権者が誰であるのか、悪魔から誘惑を受けることによってはっきりさせる必要があったのであ.る。その意味において、この闘いは「誰が主権を取るかの闘い」であると言われている。 さて、聖書の神は、無病息災、家内安全、商売繁盛、五穀豊穣を保証するものではなく、救われて信者になってもいろいろな試練に遭遇することはあり得ることを教えている。聖書のあちらこちらに信仰者が試みられる箇所が多くある。ここに、「四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた」(4:2)とあるが、旧約聖書で、モーセは40日断食した。イスラエルの民は、荒野で40年間さまよった。預言者エリヤは、神の山に行くのに40日旅をした。 このようにこれらは神の試みの時である。忍耐と信仰を要する試練である。それは、嫌な事、避けて通りたい事であるかもしれないが、その体験によって神はいろいろな語りかけを与えてくださる。そして、自分の主権が神にあることを悟るのである。 「もしも主がわたしを助けられなかったならば、わが魂はとくに音なき所に住んだであろう。しかし、『わたしの足がすべる』思ったとき、主よ、あなたのいつくしみは、わたしをささえられました」(詩篇94:17,18)とある。使徒行伝13:18では、イスラエルの荒野の旅の事を、「荒野で彼らをはぐくみ」と記している。神の試みは、「神のはぐくみ」でもあるのだ。何と感謝なことであろうか。 そのことを前提にして主がお受けになられた誘惑を見てみよう。 それは、三つの誘惑である。 ①物質(パン)の繁栄。 悪魔の第一の誘惑は、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」 (1節)である。 ユダヤ人は、メシヤは栄光のダビテ王国を再興して黄金時代をもたらすことを待望していた。 ゜ ユダヤ人は、かつてのようにメシヤが天からマナ(天よりのパン)を降らせることを待望していた。 「人々はイエスのなさったこのしるしを見て、『ほんとうに、この人こそ世に来るべき預言者である』 と言った」(ヨハネ6:14)とあるのはそのことを意味している。目に見える繁栄を人々は求めていたのだ。 悪魔は、ここでイエスに社会的救済者になろうと誘ったのである。 ②権力による支配。 二番目の誘惑は、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。 それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから、 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにし てあげましょう」(6,7節)と迫ってきた。 第二コリント4章4節に、「この世の神が」と悪魔のことをこの世の神と呼んでいる 第一ヨハネ5章19節でも、「全世界は悪しき者の配下にある」と記されている。 悪魔は、全知全能の神のような存在ではないが、「この世の君」として創造主の支配下で、 この世において行動が許されているのである。 悪魔は、自分の僕になるならば、イエスに政治的この世の救済者にしようと誘っているのである。 ユダヤ人は、イスラエルがローマ帝国をも支配し最高の位に立つことを待望していた。それゆえに イエスがイスラエルの王の座につくことは、人々のニューズに応えることでもあったのだ。 ③奇跡的神通力を証しするメシヤを待望していた。 悪魔は三度目に、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下に飛びおりてごらんなさい。 『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、 また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』 とも書いてあります」(9-11節)とにじり寄った。 悪魔は、最初の誘惑にイエスが旧約聖書の御言で返されたのを受けて、自らも巧みに神の言を使った。 しかし、10節の言葉には、「すべての道で」という言葉が抜けており、 悪魔は適当に神の御言を都合のよいように用いることがわかる。 偽預言者、偽キリストなどと全く同じである。この誘惑は、イエスが天来のメシヤであることを民衆に信じさ せるために、驚異的な神通力を人々の前で披露し群衆の心をつかむ宗教的な誘惑である。 主イエスは、悪魔から荒野の誘惑を受けた時、それらをすべて拒否した。 それは、この世の繁栄をもたらすメシヤ、この世の権力を行使するメシヤ、この世の支配者としてのメシヤを退けたことを意味している。イエス・キリストは、父の御心である公生涯を僕として全うされることの証しをしたのである。 主は、この三つの誘惑に勝利された。どのようにして勝たれたのだろうか。①御霊に満たされていた(1節)。②御言によって悪魔に向かわれた。 メシヤとして立たれたお方は、徹底的に父なる神の御心に従われることをここで表明されたのである。 ①悪魔に、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」(3節)と、誘われた時、主は、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」(4節)と答えた。これは、申命記8章3節のみ言である。これは、人間は肉体のパンと魂の糧も必要であると教えているというよりも、精神と物質のような面で言われたのではなく、天地創造の力、死人を蘇らされる力、圧倒的に神の御言には力があることを示そうとしているのである。 ②二番目として、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」(6,7節)と迫ってくると、主は、「『主なる神あなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」(8節)と答えた。これは、申命記6章13節の御言である。正しい目的達成の道は、唯一の神に期待することである。しかも、主は権威ある神の御子キリストである。こざかしい悪魔の奴隷になる必要がどこにあるのか。これは滑稽にさせ思える悪魔の策略である。 ③三度目の、「『もしあなたが神の子であるなら、ここから下に飛びおりてごらんなさい。』、『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」(9-11節)に対して、主は、「『主なる神を試みてはならない』と言われている」(12節)と切り返させた。これは、申命記6章16節である。神と御言は、テストするようなものではなく信じるものであることをお示しになられたのである。疑うのではなく、愛と真実の神を信じることである。神の最善を信じることだ。 主は、徹頭徹尾、父に信頼し服従して、ご自分の思いではなく、「・・と書いてある。・・と言われている」と神の言葉により勝利されたのだ。私たちも日頃から聖書の御言によって養われて、この世の様々な誘惑となる思想や考え方、えせ信仰の情報に騙されないで、聖書に裏打ちされた神を信じるしっかりとした信仰によって、真っ直ぐな道を歩んでいこうではないか。 |
題「荒野の誘惑」ルカ4:1-13
目次
