題「全能の神に仕える」創世記17:1-8

 2026年度標語は、「全能の神に仕える教会」―謙遜な僕としてー。標語聖句は、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」(創世記17:1)である。

 今朝は、定期総会総会に備えてこの御言に聴きたい。かつて、イスラエルの信仰の父アブラムは神と契約を交わした。その始まりは、創世記12章1,2,3節、「わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」との御言から展開されることになった。

 「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう」(創世記15:5)とも神は言われた。 しかし、アブラムとサライは、待てど暮らせど、後継者となる子は生まれなかった。待ちくたびれた妻サライは、つかえめエジプト女ハガルによって跡継ぎを得ようとした(16章)。

 ハガルがその子イシマエルを産んだ時、アブラム86歳、サライ76歳であった。高齢者となってしまった彼らには同情できるにしても、彼らがとった人間的策は神の前の不信仰であり不従順となった。その失敗から13年間、主なる神は、無言のお咎めをアブラムに与えられた。

 信仰者にとって、神の御言が聞こえてこないことほど不安なことはない。その神の沈黙は、主の約束された子の誕生が、人間業をはるかに超えたものであることをアブラムに徹底的に悟らせるための年月であったに違いない。 そして、ついにアブラムが99歳の時(サライ89歳)、神の御言が響いてきた。

 「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう」と言われた。 神がアブラムに現された時、神はまずご自分を「全能の神」(エル・シャダイ)と示された。これはヘブライ語で、「エル」とは、神のことであり、「シャダイ」とは、「全能」、「力を持つ」という意味である。神は重要な画期的事件の時に、特別な名をもってご自分を現わされる。

 モーセの時には、「わたしは、有って有る者」(出エジプト3:14)と言われた。ヘブル語で、「エヒエ・アシェル・エヒエ」と言うが、「絶対的な存在」、「他に依存しない存在」であることを意味している。ここでの「全能の神」とは、たとえ自然の秩序において、神の約束が成就される見込みがなく、また自然の力では約束されることを保証できない時でも、神はその約束を果たす力を持っておられることを示しているのだ。このように神は、まず全能者であるご自身を現された。

  二番目のことは、「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」と命じられた。神がアブラムの全生涯をごらんになっておられることを前提にして、「あなたは神の前に完全な者として生きよ」と言われたのであろうか。果たして罪深い人間が、聖にして、義なる全知全能の神の前にパーフェクトに間違いなくその人生を全うすることができるのであろうか。

 この御言は、そのような意味ではない。これは、「わたしに対して、いつも心を向けている者となれ」(現代訳)と言われたのである。「全き者」とは、いつも主に心を向けていることである。

 ノアのことも「全き人」(創世記6:9)という表現が使われているが、これも、「主にのみ心を向けて生きていた」(現代訳)と訳されている。 ここでの「全き者」とは、失敗しないとか、誤ったことをしないという意味ではない。アブラムは、それ以前にもそれ以後でも失敗はあったし誤りもあった。しかし、彼の心は神に向けられていた。

 アブラムは、信仰によって歩んでいたのである。そのようなアブラムと神は契約を結ばれたのである。 この契約には、二つの証印で契約が保証された。一つは、アブラムとサライに新しい名前が与えられたことであり、二つは、割礼である。

 アブラムは、「高い父、高貴な父、高貴な族長」を意味していたが、アブラハムは、「多くの国民の父」という意味がある。彼の改名は一大転機となった。「神の祝福の基」として世界に貢献できる彼の使命が明確になった。割礼は、早くからエチオピア人やアラビア人などの間で衛生目的でなされていたが、この場合は、宗教的な意味があった。アブラハムの子孫は、生まれて八日目に割礼を受けることになった。これは神との契約の印となった。 彼らは、日々の生活の営みの中、常に神との契約を覚えることができたのである。

 さて、新年度にあたり、私たちは「エル・シャダイの神」を信じようではないか。そして、全能の神の御前に遜り、たとえ失敗しても、誤ったとしても、いつも主に心を向けて主と共に労し働き仕えていこうではないか。そのような一年間とさせていただきたい。

 「風越山の町から世界へ」ー心のオアシスでいやされてこの世に仕える教会ーとして。
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