題「信仰の手を伸ばす」ルカ6:1-11

 ユダヤ教の三大祭りとは、過越しの祭り(ペサハ 出エジプトの救いを記念する春の祭り)、七週の祭り(シャブオット 過越しの祭りから50日目に行われる夏の祭り。収穫感謝と十戒授与の記念)、仮庵の祭り(スコット 荒野の40年間さまよった時代の仮小屋に住んだことと秋の収穫感謝の記念)である。

 さらには、毎週の安息日も厳格に守られていた。イエスのこの時代も同様であった。 今回の聖書箇所では、二つの安息日に、弟子たちと主イエスが表面上戒めを破ったかのように見える「革命的言動」が行われたことは非常に興味深い。

 一つは、巡回の伝道で飢えた弟子たちが、麦畑の中を通過中、ユダヤ教の戒律で禁じた労働、麦の刈り入れと打穀をして食べる事件が起こった。もう一つは、生計を支える右手のなえた人を癒し救う事件である。

 律法遵守のパリサイ人たちは、すぐに反論し彼らを裁いた。「あるパリサイ人たちが言った、『あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか』。」(2節)。本来、安息日は、人間の幸福のために定められたものであった。一週間に一度休息をとり、翌日からの霊肉共に健やかな状態を維持するために備え整え、また元気に労し働くのである。 ところが、律法学者やパリサイ人たちは、それを形式主義に変えてしまったのだ。安息日の精神を全く無視して、食事のための作物を洗うこと、粉をひくこと、パンをこねること、焼くこと、火をつけることなどを禁止した。歩く距離までも決めてしまった。

  このような宗教生活を人々に強制していたパリサイ人に対して、主は、タビデが安息日に聖なるパンを食べた事件を引用された(サムエル上21:1-6)。「『あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれも食べてはならぬ供えのパンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか』」(3,4節)と語られた。

 ということは、パリサイ人たちは、神の御言よりも人の説を重んじ、神の御心をわきまえることなく、自分たちの考えや意見にとらわれて真理から大きく脱線していたことがわかる。

 別の安息日に、イエスが何をするのか、律法学者とパリサイ人たちは、訴える口実を手ぐすね引いて待っていた。「律法学者やパリサイ人たちは、イエスを訴える口実を見付けようと思って、安息日にいやされるかどうかうかがっていた」(7節)。 イエスは彼らの目論見を見抜いて、却って安息日に男を癒されるのである。「イエスは彼らの思っていることを知って、その手のなえた人に、『起きて、まん中に立ちなさい』と言われると、起き上がって立った。そこでイエスは彼らにむかって言われた、『あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか』。そして彼ら一同を見まわして、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。そのとおりにすると、その手は元どおりになった」(8-10節)とある。

 宗教指導者たちは、病人の癒しは、何も安息日にしなくてもよいだろうと思っていたに違いない。しかし、本当にそうなのだろうか。 ならば、彼らは、安息日の前日にその人を癒すことができたのか。安息日の翌日ならば癒すことができるのか。そんなことができるはずがない。

 失われた者を救い人のいのちを救うことができるのは、主イエスだけである。「善」と「悪」の中間はなく、「いのちを救うか」、「いのちを失うか」の二つの内の一つしかないのだ。 敢えて主が安息日に癒しの御業をなさったのは、本来の律法の精神と心を呼び覚まし、ユダヤ人すべての者の真の宗教の意識革命を与えるためであったのではないだろうか。

 人のいのちというものは、形式よりも大切なのである。安息日は人のためにあり、人が神からいのちをいただく日なのである。

 キリスト教会は、復活の主を記念として日曜日に礼拝をささげるようになった。私たちは、主日礼拝において神にお会いし、キリストとお会いし、それぞれの魂に新しい神の恵みと祝福といのちをいただくことができる。

 私たちは、週の初めのこの日、弱っている心の手足を信仰によってしっかりと伸ばし、新しい一週間のために健康な魂を整えなければならない。御言にこうある。「それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい」(ヘブル12:12,13)。

 「人の子は安息日の主である」(6:5)。今日も礼拝の主人公であるイエス・キリストの御前に信仰をもって近づき、信仰の手を主に伸ばし触れようではないか。主は、「手を伸ばしなさい」と言われる。「そのとおりにすると、その手は元どおりになった」。私たちの必要を満たしてくださるお方に大きな期待と信仰をもって手を伸ばそう。
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