| 聖霊降臨記念日の礼拝において、教えられているところをお分かちしたい。 ルカ5章1節から11節は、漁師であったペテロ、ヤコブ、ヨハネのイエスの弟子としての召命の出来事が記されている。彼らの召命物語は、他にも記されている。 「イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った」(マタイ4:18-22)。 「イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ、シモンとシモンの兄弟アンデレとが、海で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。また少し進んで行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで、すぐ彼らをお招きになると、父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟において、イエスのあとについて行った」(マルコ1:16-20)。 この二箇所での主の彼らに対するお召しに対して、ともに「彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った」(マタイ・マルコ)と報告している。彼らは早い段階で主の弟子として従う者とされているのである。 ルカ4章38節に、「イエスは会堂を出てシモンの家におはいりになった」とあるように、ここでも、すでにペテロがイエスに弟子入りしていることがわかる。ところが、このルカ5章でわかることは、ペテロたちはなお漁師の仕事を捨てきれてはいなかったことだ。 彼らはその日ゲネサレ(ガリラヤ)湖で夜通し漁をしたが、何も取れず、諦めて陸に上がって網を洗って片付けをしていた。 彼らは、主が「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と言われながら、それよりか魚一匹とるほうが大事であったのである。 だから、ペテロは姑が熱病で苦しんでいた時も自ら進んで癒しを求めていなかった。ペテロではなく、他人が頼んで姑は癒されたのであった。ペテロたちは、おそらく主のお召しがあったものの、神の言葉だとか信仰に対して敬虔な態度はなかったのではないだろうか。召命と献身が不徹底だったように思われる。 しかし、この度は違っていた。漁を終えようとしていたペテロに、イエスは、「沖へこぎ出して、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。ペテロは言い訳をして乗り気ではなかったが、「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と従った。すると、「そのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった」(6-7節)とある。たいへんなことになった。 「これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った。『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です』(8節)とある。ペテロは全く驚嘆してしまった。彼は信じられないこの出来事のゆえに、厳かな神に対する畏敬の念が生まれた。旧約聖書の士師記13章22節に、「わたしたちは神を見たから、きっと死ぬでしょう」とあるように、ペテロは思わず恐ろしくなってイエスの前にひれ伏して礼拝したのである。 ペテロだけではない。「彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった」(9,10節)とある。「すると、イエスがシモン・ペテロに言われた、『恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ』。 そこで(彼らは)舟を陸に引き上げ、(いっさい)を捨ててイエスに従った」(10,11節後半)と記されている。 ペテロたちの召命と献身はそれまでとは全く違ったものとなった。ペテロは、「わたしから離れてください」と言いながら、普通ならば逃げるところを、主イエスに本気で従う者とされた。人の罪深さのゆえに主から離れていくのではなく、却って遜って主に従う者となったのだ。 このような態度は、私たちにも起こることである。罪ある者との自覚は、砕かれた魂になる前提となる。そのような魂に主の憐れみと助けと導きがもたらされるのだ。私たちは、本当に自分の罪の恐ろしさに震えるような体験をしたことはあるのだろうか。自分の罪がいかに神を悲しませ痛めているのか気づいていないとするならば、私たちには砕かれた魂がないことになる。 これはすべての信者が聞き流してはならない神のチャレンジである。 さて、約束の聖霊降臨を待ち望む120名ばかりの祈りの一団は、皆一様に脛に傷持つ人たちであった(使徒行伝1:12-15)。弟子たちは、主の召しに応えようとしたものの、全員失敗してしまった。主が敵に渡される夜、イエスを見捨てて逃げてしまったのだ。女たちも男社会とこの世の権力に無力でありイエスのために何もすることができなかった。一人一人が慙愧の念に満たされ己の恐ろしい罪を自覚し心千々に砕かれていたのである。まさに、皆が失敗者、挫折者、であったのである。 しかし、そのような弱き人たち全員が、それぞれの魂が砕かれて、「エルサレムから離れないで、かねてからわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(使徒1:4,5)との主の御言を信じて、遜って、「彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた」(1:14)のである。 彼らは、ここに集められた時、皆が脛に傷持つ者たちであったが、それぞれの過去について互いに、批判したり、裁いたり、悪口を言うような人はいなかった。皆が己の罪の前に立っていたのだ。他者が問題なのではない。自分が問題であることを誰もが知っていた。全員が自我に砕かれていたのである。 それは、主イエスの昇天後、忍耐の10日間の待望祈祷会となった。 そして、彼らのそのような謙遜と信仰と従順が主に受け入れられて、五旬節の日(ペンテコステ)、俄然約束の聖霊は降られキリスト教会は誕生したのである。 「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(1:8)。 私たちも弟子たちと同じように完全な者はひとりもいない。けれども、そのような私たちであってもお互いに「砕かれた魂」となり、遜って、聖霊の満たしを求めていくならば、すでに降られた御霊は、一人一人の求めに答えてくださるに違いない。 「よろしく御霊に満たさるべし」(エペソ5:18文語訳)。これは、パウロが読者に相談を持ち掛けているのではない。神のご命令である。そして、その必要を満たすお膳立ては、すでにできている。聖霊は、これから降られるのではなく、すでにこの世におられるのである。実に、今は聖霊時代、教会時代である。 こう記されている。「わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである」(第一ヨハネ5:14,15)。 ペンテコステの御霊に満たされるための方法がわからないのではない。知らないのではない。この教会においても90年以上語られてきた。それを皆が自分のものとするために必要なものは、真理の御言を信じる信仰とその約束に対する従順である。信仰と従順によって自我に満たされている信者ではなく、聖霊に満たされた信者になろうではないか。 |
題「砕かれた魂」ルカ5:1-11
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