題「預言の成就」ルカ4:14-21

 キリスト教会の礼拝に初めて来会した方で、古い文書である聖書を特別に権威あるものとして取り扱っていることに抵抗を感じる人がおらるようである。あるいは、教会に集う人たちは、無批判な盲従者ではないのか、と訝るのかもしれない。

  確かにクリスチャンは、聖書はただの本ではないと信じている。しかし、何も検証もせず漠然と信じているのではない。聖書が神の御言であることの根拠はある。  

 聖書は実にユニークである。旧約聖書39巻、新約聖書27巻、計66巻の古い文書は、①まず聖書記者が多様である。漁夫、預言者、王、農夫、学者などの人々が約40人が大体1600年間に亘って、いろいろな場所で書いたものが一つにまとめられている。不思議なことに全体として統一性があり一人の記者が書いたように首尾一貫している。これは、聖書の真の記録者が神であることの証拠ではないか。

 ②二番目は、ルネサンス以来聖書が神話とされていた時代があったが、考古学の発達により多くの聖書に関わる発掘がなされ聖書の歴史性が証しされてきた。

 ③三つ目が、預言の成就である。ユダヤ民族についての預言、メシヤ(キリスト)についての預言。おびただしい預言が長い歴史において見事に成就してきた。神はご自身の御心を人間に伝えるために預言者を立て、彼らに神の御言を預けた。そして、それらがやがて実現したのである。これらは上から付与された神からの啓示である。  

 さて、主イエスは、荒野での悪魔からの三つの誘惑に勝利され、御霊の力にあふれてガリラヤに行かれた。主のご人格から醸し出されるその魅力と力強さは、人々の知ることとなった。「そのうわさがその地方全体にひろまった」(14節)とある。

 それ以来、主は各地の諸会堂(シナゴーグ・ユダヤ教の集会所)で聖書(律法の書・トーラー)を教え、皆から尊敬を受けるようになった。それから、故郷であるナザレに戻り、ある安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとして立たれた(16節)。これは、予め会堂管理者が朗読者を指名することになっていた。  

 すると、会堂の役職の人(ハッザン)が、その日朗読されることになっていた巻物のイザヤ書をイエスに手渡した(これはイエスが選んだのではなく会堂管理者が決めたこと)。主はその書を開いて朗読された。

 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださった(主はわたしに油を注ぎ 新改訳・主がわたしに油を注がれた 共同訳)からである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」(18,19節・イザヤ61:1,2)と。

  朗読を終えたイエスは、聖書を巻いてハッザンに返し席に着かれた。主の聖書朗読で人々は、厳かな霊的な雰囲気に心打たれたようである。「会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた」(20節)とある。「そこでイエスは、『この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した』」(21節)と言われた。

 この意味は何か。まず、「主がわたしに油を注がれた」という言葉に注目しよう。「油注がれる者」とは、ヘブライ語で「メシヤ」、ギリシャ語で「キリスト」、「救い主」のことである。預言者イザヤは、やがて救い主が来たることを預言したのである。そして、今やイエスによりその箇所がリアルに会堂で朗読された。「きょう、聖書のこの御言葉が、実現した」と語られたのである。

 これは、主イエスのメシヤ性を、クライマックスとして、御言と御自身による断言の瞬間であった。「わたしこそキリストである」と宣言されたのだ。新約聖書のギリシャ語、「エゴー・エミイ」(わたしは・・・である)を思い起こされる。これは、主が御自身の神性や役割を宣言する際に用いられる重要な表現である。

 「主のめぐみの年」とは、ユダヤには50年ごとに「ヨベルの年」といって自由をふれ示す年があった。その年には、奴隷は無償で解放され、負債は免除され、人手に渡っていた嗣業の地も回復される。「ヨベル」とは、「ラッパを吹く」の意で、この年の初めに祭司たちがラッパを吹いてあまねく国内を巡ったのである。この年は、ユダヤ人にとって大いなる喜びの年である。

 それは、主イエスによる恵みの時代の予表であったのだ。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(第二コリント6:2)。主イエスによって福音による解放が宣言され、恵みの年は開かれたのである。今、私たちはそのような神の恵みの時代に生きている。何と幸いなことであろうか。さあ、飯田入舟教会も心強くして、今年もイエス・キリストの福音の知らせをもって伝道しようではないか。
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