米国の歴代の大統領の中で、今も一番尊敬されて人気がある大統領は、アブラハム・リンカーンであることが知られている。あれだけ立派な功績をあげた人であるので、その経歴やキャリアも素晴らしいものなのだろう、と多くの方々は考えるのだが、実際は違っているようである。どちらかというと悲しみの人といってよいくらいの人生を歩いてきた人物だった。
①22歳の時に商売に失敗して借金返済のため15年間苦労した。②24歳の時に州の議員に落選。③25歳の時に州の議員に当選するものの、26歳の時に婚約者が死亡してしまう。悲しみのあまりうつ病になり5年間闘病する。④31歳にやや回復し下院議員選挙に立つが落選。⑤33歳でメアリーという女性と結婚。これはメアリーの押しかけ結婚であった。彼女は気性の激しい性格で日々絶え間なく近所に聞こえるほど、どなりちらしてしまう人であった。リンカーンの口癖は「家に帰りたくない」であった。リンカーンの最大の悲劇は暗殺ではなく悪妻との結婚であったという人がいるほどである。⑥39歳で上院議員に立候補して落選。⑦40歳でまた落選。⑧47歳でまたまた落選。⑨49歳で落選。➉51歳で第16代米国大統領に当選する。そして、暗殺される56歳までに火のように燃えて黒人奴隷解放のために労し働いていったのである。ある面、彼の人生は悲しみ多い人生であったと思われる。
さて、他人事ではなく、私たちの人生にも悲しみがつきものではないかと思うことがたくさんあるのではないだろうか。願っても欲してもいないのに、様々な不幸と思われることが私たちの人生において起こり得るのである。
ルカによる福音書7:11-17の箇所にも悲しみの人が登場する。ガリラヤからナインに来られたキリストは、彼女に出会う。悲しい出来事が彼女を襲う。夫を失ったばかりか一人息子が死んでしまった。その日は非情な葬式であった。大勢の人々がかわいそうな一人の女に付き添い慰めていたのである。イエスさまは、この婦人を見て「深い同情」を寄せられて、やさしく言葉をかけられた。「泣かないでいなさい」(13節)と。新改訳では、「泣かなくてもよい」とある。そして、近寄って棺に手をかけ、行列をとめ、死人の若者をもう一度よみがえらされ、一人息子を母親の元にお返しになられたのである。この悲しみの現実に対して、イエスさまは大いなる奇蹟をもって慰めをお与えになられたのである。
お互いの人生においても、死という出来事は突然予期しない時に訪れるものであろう。ナインの女にとって、幸せな生活を営んでいた家庭に夫の死という不幸が襲った。聖書には書いてないが、この婦人はその日から重荷を負う人生を実感しながら過ごすようになったのではないだろうか。そして、苦労を重ねて、一人息子を育てあげた。涙と汗で母と子の小さな家庭は保たれていたのだろう。母親は、「もう苦労はごめんだ。もう二度と同じような目に遭いたくない」。一人息子に老後生活を託して、それはそれは我が子を大切にして成人させたのではないだろうか。しかし、死の問題は再び彼女の心を引き裂いたのである。頼みの息子が突然であるのか病に臥せって長い闘病の結果かわからないが死んでしまった。おそらく、この婦人は生きながらして、闇の淵の中に投げ込まれ、地獄の苦しみを体感したのではあるまいか。
ナインの女は、息子を愛した。息子を信じた。息子を望みとした。しかし、今やこの三つのものは、取り去られてしまったのである。彼女は気も狂わんばかりに、冷たくなった我が子を抱きしめて、いつまでもいつまでも泣き叫んでいたことでだろう。けれども、やがて無情な葬りの日がきた。町中の大勢の人々が婦人を慰めるために集まってきた。12節によると「大勢そばに付き添っていた」とある。やさしく彼女を支えるように葬る墓地まで付き添っていたのだ。主イエスは、そのような時に女と出会われたのである。
イエスさまは、この母親の身に起こったことを知られた。そして、13節「主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ『泣かないともよい』と言われた」と記されている。この短い言葉に驚きを覚える。主イエスが一人の女の人生に起こった出来事によって、心乱されて、揺さぶられて、深い同情を示されたからだ。聖書の神観念の一つに、「神は権威あるお方」というのがある。神は他の何者にも干渉されることなどなく、その存在は微動だにしない。ましてや人間に影響されることなど決してないのである。少し前の箇所をごらんいただこう。7:1-10である。ここでイエスさまは、ご自分が権威ある者であることをお示しになられた。
ローマ軍の百人隊長は、部下の病をいやすために、7節、8節、口語訳「ただお言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです。」と嘆願した。その百人隊長の言葉の中に、イエスさまが何者であるのか、その権威を確かに認めていることに気づく。すべてのものは、キリストの前に膝を屈め、彼の権威に服する。彼こそ神であり、唯一の権威者である。百人隊長はそのように主イエスを信じたのであろう。
イエス・キリストのナインの町以前の活動において、まさしくそのようなお方として、人々の目に映ったことであろう。人々は、権威あるイエスに驚き、彼に従って、町々村々を巡り歩いたのである。そして、キリストの弟子たちや大勢の群衆も一緒になって、このナインの町にやってきたのだ。
ところがどうであろう。イエスさまが息子を失った女に示されたお姿は多くの人々の、未だかつて見たことのないお姿であった。主イエスは、ここで一人の女に影響され、心揺さぶられ、深い同情(憐れみ)をお示しになられた。この「深い同情・憐れみ」は、五臓六腑を指す言葉である。腹の底から全人格を傾けて、感情を表されたことを意味している。それは、人々が不可解に思うほどであったのではないだろうか。
そこには、あの権威あるお方のお姿はない。ユダヤの神観念とは、ほど遠い弱々しい姿に人々の目には映ったことだろう。それは、後にキリストの宣教活動に悪い影響を与えるほど、好ましいものではなかったと思われる。せっかちな、一番弟子のペテロなどは、主の御元に近づいてきて、「先生、どうしてたった一人の若者の死と、その母親のことで、そこまでお心を乱されるのですか。もっといつものように権威あるお姿でおふるまいください」などと、一言あっても少しも不思議ではない。けれども、却ってこの主イエスのお姿に大きな慰めを覚える。
イエスさまは、この一人の母親に目をとめ、その心を知られ、自ら心深く動かされ、我を忘れるような深い同情をお示しになられた。それは、今後の活動にとってマイナスになるようなことがたといあったとしても変えられることはなかった。この瞬間は、一人の母親のためにある。この時間は彼女に独占されている。ひたすらイエスさまの心はこの女に向けられている。そして、「泣かないでいなさい」と語られるのである。何と短い言葉か。しかし、無味乾燥ではない。キリストだけが語ることができるみ言葉である。彼女の心は、そのやさしいさに、多くの人々の慰めの言葉以上の慰めをいただくことができたに違いない。
さあ、その後何が起こったのであろう。14節から16節を読むと、ことの結末が記されている。母親にとって最高のかたちで終わっている。キリストによって一人息子は再び生かされ神の栄光が顕されたのである。私たちが聖書を読んでいく時、いつも悪しき出来事に対して神が働いて大逆転が起こっておさめられる記事が多い。奇跡が起こる。癒しが起こる。そういうことに私たちは言いようのない安心感を持つ。
しかし、私たちにとってそれだけが神の栄光なのであろうか。もしも若者がよみがえらなかったならばだめなのであろうか。私は、ナインの女にとって死人の復活だけが神の栄光ではなかったのだと思っている。なぜならば、女にとってすでに神の栄光は顕されているのである。13節において、イエスさまの驚くべきお姿とご人格に触れて、彼女のそれまでの子どものように泣きじゃくるだけの人間ではなくなったのではないかと信じる。
この時、ナインの女は、キリストの涙を見たのだ。あの権威あるお方のはずのイエスさまが、我を忘れるように、この貧しい一人女のに御目をかけてくださった。そして、「泣かないでいなさい」と語ってくださった。これは、キリストだけが語ることができる「私の胸元で泣きなさい」という逆説の意味もあるかもしれない。「あぁ、私の人生の暗闇において、神さまは私を一人にしておられたのではなかった。私は見捨てられたのではなかった。ここにおられるイエスさまは、私のために心を引き裂いて私の痛みと悲しみを理解しそれを担ってくださった」と。
この時、この母親は燃えるようなキリストの愛を知ることができたのである。たといここで奇蹟が起こらなくても、すでに彼女は神の栄光を見たのだ。そして、それはやがてイエス・キリストの十字架の死と復活という出来事において証明されたのである。実に、救い主はナインの女の罪と重荷、悲しみと苦しみを身代わりに負われ、十字架について血を流し肉体を裂いてくださった。この母親は、後にエルサレムで起こる出来事を通して、真に神が愛であることを体験したに違いない。
さあ、お互いの人生に悲しみを越えていく希望が神によって与えられているということは、何と心強いことであろうか。あなたもかつて一人の母親に、五臓六腑揺り動かすように、愛と憐れみをお示しくださったイエスさまを人生の主人として信じそのお方に委ねて生きていこうではないか。そこに人間の深いところからの希望があるのだ。
