題「新しい契約」ヘブル9:11-22

 世界聖餐日礼拝において、この箇所を学びたいと願っている。2021年4月からヘブル書を学んでいるが、改めて概観しておきたい。著者は不明である。執筆年代は、AD70年のエルサレム崩壊以前であろうといわれている。執筆場所は不明。宛先はパレスチナ以外に住む(イタリヤ)ユダヤ人キリスト者であると思われる。執筆事情は祖国から離れた地にいるユダヤ人キリスト者の信仰を励ますためである。彼らは信仰を持った最初の頃は、よく迫害に耐えていたが、いつしか心は萎え信仰を捨てる者やユダヤ教に逆戻りする者が出てきた。そこで著者はこの手紙により、キリストの比類なき豊かさとその素晴らしさを指し示し、与えられた信仰に留まるように導いているのである。

 もう一度確認しておきたいことは、ヘブル書が書かれた目的は明白である。それは、読者に大祭司(聖なる神と罪人の人間との間に立ってとりなす者、仲保者)キリストの唯一性と卓越性を指し示すためである。それがヘブル書のメッセージなのである。「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、与えられていないからである」(使徒4:12)。

 7章では、アブラハムの時代に登場した祭司メルキゼデクが紹介され、キリストの模型的存在としてスポットが当てられている。キリストこそ永遠に生きる大祭司として神と人との間の仲保者(とりなし手)として働き救って下さるのである(7:24,25)。8章6節から13節までにおいて契約という思想が取り扱われている。これは旧約聖書から新約聖書までを貫く基本的な思想の一つである。

 契約(ヘブル語では、ベリース。「定める」「結ぶ」という意味。ギリシャ語では、ディアセーケー。「約束する」「同意する」の意味)とは、普通二人の間の約束事で、その約束は両者に同意した条件のもと成立するものである。従って一方がその条件に反した場合にはその約束は無効になる。しかし、神と人との契約は対等ではない。契約の主導権は神にある。それだからこの契約は人の神に対する信仰と服従を前提にして与えられているものである。これにイスエラエルの民は失敗した。悲しいことに彼らは選びの民でありながら律法の違反者となってしまったことである。

 そこで著者は、8章のところで旧の契約と新の契約を比較し旧約に優る新約の祝福と恵みを証しているのであるが(独自性と絶対性を力説している)、この新しい契約は、まず質的に新しいのである。時間的に新しいという意味ではなく、全くの別物であり古い契約を無効にし、消滅させるものである(第二コリント5:17)。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」 また、内的な人の心に印刻される契約である。十字架の愛と赦しの御業のゆえに与えられる自発的な信仰と行動である(第二コリント3:3)。「あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板ではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている」

 さて、9章11節から14節には、新約で起こったことが記されている。大祭司キリストがすべての救いの御業を成し遂げて天の聖所に入り永遠の贖いを全うされた。キリストは何をして下さったのか。それは、「一度だけ」(12節)聖所に入られたのである。これは、不完全な毎回、毎年繰り返されていたようなものではなく、永遠に有効な贖いとなったのだ。それは、14節によると「良心をきよめて」「生ける神に仕える者」とされるキリストの血潮の力が与えられたことを意味する。

 15節から18節によると、キリストの十字架の死のゆえに新しい契約は堅くされた。「約束された永遠の国を受け継ぐ者」とされたのである。興味深いことに「死なれた結果」のことを、ここで遺言状の効果として説明している。「遺言は死によってのみ効力を生じ」とある。そして「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」(22節)と語る。
 実に旧約に優るキリストの御宝血の犠牲によって救いは完成したのである(23-27節)。本章の鍵言葉は「一度だけ」(7,12,26,27,28節)である。キリストは多くの人々の罪を贖うために、一度だけご自身を贖いの供え物としてささげて下さったのである。

 「一度だけ」であることは不足があるのではない。それは「全部」であり「完全」である。もはや補う必要がない。完璧な御業であった。旧約時代に成し遂げられなかった完成した救いなのだ。この事実の重みはいかばかりであろうか。今日、この驚くべき神の豊かな恵みと祝福が与えられておりながら、もしそれを受け取っていないとすれば、どれほどの損失であろうか。残念でならない。私たち教会は、益々伝道の業が進められなければならないと思わされる。

 さて、この新しい契約によって私たちは、今日聖餐式に与ることが許されている。本当に感謝なことである。私たちは、このことによってキリストの救いと贖いを見える説教として味わうことができる。すなわち、私たちの罪は赦され、復活されたキリストが私たちと食事を共にし、やがて終わりの日に、私たちは神の御前に集められて主の特別な祝宴に列する。この喜びと希望を聖餐式で確認することができるのだ。

 またキリストの血肉を象徴するパンとぶどう液を飲食する者は聖霊によってキリストと一体とされる。そのために、①自分の罪を悔い改め主の赦しを請う。②赦しと救いを信じる。③他者の罪と過ちを赦し祈る。④キリストの和解の御業のために祈る。これは宣教のための祈りでもある。さあ、私たちは聖餐式に与る度にそのことを留意しながら神の前に慎んで跪きたいと思う。
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