| 「キリスト教の人たちは、先祖を粗末にする」と言う人がいるが、本当にそうなのであろうか。少なくとも私たちの教会では、一年に一度教会主催により「召天者合同記念礼拝」をご遺族の方々を教会にご招待して愛する先に天に召された方々を記念して集会をもっている。今日がその日である。 また、午後には、当教会の墓地がある飯田市城山公園において墓前礼拝がなされる。そこには教会の納骨堂と個人墓地がある。教会員と関係者が相集い讃美と祈りをささげるのである。このように、私たちは、故人を忘れることなく偲び、またお一人ひとりを救ってくださり神の御国に引き上げてくださった救い主イエス・キリストを礼拝すると共に、そこに集う人たちが皆同じ神の恵みと祝福に与り、天国信仰の希望に生きるように願って記念礼拝を開催しているのである。 さらには、年間を通じてご遺族が必要によって記念会というかたちで故人を偲び記念する機会をもっている。 さて、この機会にご一緒に「死後のことについて」考えてみたい。ある方は、「そんな縁起の悪いことは考えたくない」とおっしゃるかもしれない。また、「自分は死ぬことよりも生きることに関心がある」と反応されるのかもしれない。けれども、このテーマはミステリーな世界だけにとても重要な私たち人間の必要不可欠な問題なのではあるまいか。人は誰でも死ぬ存在であるからだ。 ですから、人が生の向こう側にあることに思いを向けることは決して無駄ではないと思う。でも、ある人は「死後の世界は死んでみないとわからない」と斜に構えて言われる。逆にある人は「死後の世界があって欲しい。善人は天国に行き。悪人は地獄に落ちる。人間の地上の不条理な一切の事柄が清算され善と悪が平等に裁かれ報いとして天国と地獄に分けられてそれぞれが行くべき場所に行く。誰にでも納得できる死後の世界があればよいと思う」と言われることもある。 さらには、英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士(2018年、76歳で死亡)などは、「天国とは闇を恐れる人のおとぎ話にすぎない。天国も死後の世界もない」と断言している。人間は死んだらそれでおしまい。何にもなくなって無になる。それだけ、というのであろう。あなたはどのようにお考えであろうか。 ある少年の大好きなおじいさんが亡くなった。その家の宗教は仏教なのである宗派の僧侶が複数来て葬式がなされた。式の終わりの頃、ひとりのお坊さんが大声で、「カーッ」と叫んだのを聞いて大変驚いた。彼はお母さんに聞いた。「お母さん、あの『カーッ』って何?」と。母は、「あれはおじいさんに引導をわたしてくれたんだよ」と答えた。「引導って何のこと?」と聞くと、「おじいさんが極楽に行けるように祈ってくれたんだよ」、「極楽はどんなところ?」「それはきれいで美しいところで、川が流れていて、蝶々がひらひら飛んでいて、花がいっぱい咲いているところだよ」と。少年は、おじいさんがそんないいところへ行けたならよかったなぁと思った。 ところが、それから49日間、お母さんは熱心に仏壇を拝み続いていた。そこで、少年はお母さんに、「何で毎日拝んでいるの?」と聞くと、「おじいさんが行くところに行けるように拝んでいるんだよ」と言う。「えっ、カーッと言って極楽に行けたのではないの?」すると、お母さんは考えこんで、「私にはようわからん」と答えたという。それ以来、この少年は人が死んでからどうなるのか大きな疑問が残ってしまった。 けれども、このことについて別のことを教えられる僧侶もおられる。そもそも「カーッ」という叫びは、死んだ人のために叫ばれるのではなく、生きている葬式に参列している人々に向かって叫ばれているものであるというのである。「あなたもやがてこの故人のように死ぬべき存在である。だから生きている間にしっかり信心して励まなければならない」と叫んで会葬者に問うているのである。仏になるのは死んでからではなく、生きている間であることを教えているのだ。 混乱することは他にもある。日本の祖先祭りは。春のお彼岸、夏のお盆、秋のお彼岸、故人の命日の一年4回である。夏のお盆を例にあげると、極楽に行っているはずのご先祖様が地獄の蓋があいて家に帰ってくるということで精霊迎えをする。迎え火を焚いて倒懸(とうけん・地獄のこと)の苦界から13日から15日まで自分の家に迎えるのだ。仏壇に食物を供える。お盆が済むと魂送りといって仏壇から引き出されて、再び野辺おくりされ、倒懸の苦界へおし返される。地域によっては、送り火を焚く。 全国的に行われる灯篭流し(精霊流し)は、再び倒懸の苦界へ寂しく帰って行く精霊を慰めるための供養になっている。皆さんもご存じのさだ・まさしがクレープ時代の代表曲に「精霊流し」がある。長崎出身のさださんのしめやかな美しい鎮魂歌になっているようだ。初回プレスは4,500枚。累計では30万枚を売り上げた。後に小説になり、テレビや映画にもなった。しかしながら、悲しき哉、毎年この仏教行事に参加している人々は自分たちがご先祖様をどこに送り流しているのか知らないでいるのである。 このようにしてお盆で当たり前のように行っている仏事は毎年地獄からご先祖様を迎えたり送ったりしているのである。極楽に行っているはずのご先祖様が、一年間のわずか三日、四日だけ地獄を抜け出して家に帰るが、他の360日間は地獄の苦しみなのである。しかもそれなのに、毎日お勤めとして仏壇にご先祖様が在宅しているかのように、線香を焚いたり、ごはんをあげたりしているのだ。なんとういう矛盾であろうか。 このような習慣的仏事は、私たち日本人の思考を混乱させわからなくしているのではないだろうか。 皆さん。私たちの先祖や家族は、私たちが生きること、死ぬことに明確な答えをもって希望のある生涯を全うして欲しいと何よりも願っているのではないだろうか。そこで、聖書の教える死後の世界は明確である。 ①現実の場所(14:2,3)。 「わたしの父の家(神の国・天国の意)には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいた であろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またき て、あなたがたをわたしのおるところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」 これは、イエス・キリストが弟子たちに天国について教えられた箇所である。天地万物を創造されてすべてのものを支 配しておられる神であり、救い主であるキリストが明確なかたちで天国について言及しておられる。あるのか、ないの かわからないのではなく、「ある」と言われている。飯田市内のある僧侶にこの箇所のことをお話をした時に、彼は 「キリスト教の死後の世界については、はっきりしていますね」とおっしゃったことがある。 ②人知を超えた素晴らしい場所(第1コリント2:9)。 「聖書に書いてあるとおり、『目にまだ見ず、耳にまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご 自分を愛する者たちのために備えられた』のである」とある。 天国は、単に現実の場所であるだけではなく、私たちの想像を絶する素晴らしい、また楽しい場所なのである。神が人 間に備えてくださった祝福の最高のものは天国である。私たち人間が想像し得るすべての良きものをはるかに超越し たものが用意されている世界である。 ③天国にないもの(黙示録21:3,4)。 「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに 過ぎ去ったからである」とある。 この記事は、天国にないものである。そのことを告げることによって逆に天国の素晴らしさが理解できるのではないだ ろうか。天国には、死がない。天国に行った人は、「栄光の体」という新しい体を与えられ死ぬことなく永遠に生きる のだ。天国には、悲しみがない。地上にあったような肉体的、精神的苦痛も障害ない。すべてが新しくなっているとい うのである。 イエス・キリストは、ヨハネ14章1節において、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、わたし(救い主) を信じなさい」と言われた。創造主を信じ、イエスさまをを信じ、委ねなさい、ということである。 それでは、私たちはどのようにすればそこに入ることができるのだろうか。一つの例をあげたい。 ヨハネによる福音書の3章に、優れた人物ニコデモという人が登場している。彼は人間的、社会的、宗教的に申し分のない人物であったが、ある時自分の足らざるを感じた。それは自分には宗教はあるが、本当に人を生かす、そして永遠に至る生命について全く無知であったことがわかった。 彼はイエス・キリストに来て真の救いを求めたのである(ヨハネ3:1-16)。 ①ニコデモの足りなさ。「先生、わたしはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできません」(3:2)。自分には、宗教があっても救いがない。神と共に生きている生活がないことを気づいたのである。その不足を認めてイエスにそれを求めたのである。 ②イエスが救われる秘訣を示す。「よくよくあなたにいっておく、だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)。これは、立派な人に語られる言葉として不思議である。それは、天国に入るための大事な門のようなものである。まず一つは、神の前に知性が罪のために機能していないということである。つまり神がわからない、人間の罪がわからないということである。第二は、罪のために意志が機能していない。「善をしようとする意志は自分にはあるが、それをする力がない。かえって悪を行ってしまうからである」(ローマ7章)。パウロという同じように立派な人は、「わたしは、なんとみじめな人間なのだろう。だれが。この死のからだから、わたしを救ってくれるだろう」(ローマ7:24)と吐露している。大事なことは、本当の自分を知ることである。 ③救いは神の出来事であること。「だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない」(3:5)。ニコデモは、母親の胎内に戻って生まれ変わるイメージをもったようであるが、そうではなく心が新しくされることを意味していたのである。「水」とは、伝統的に洗礼。「霊」とは、聖霊のこと。すなわち、神の御業として人は生まれ変わらせていただくことができるということである。彼は、やがてイエスの十字架による罪と赦しを信じ、天国に至る命の道を見出すことができたのである。多くの聖徒と共に。あなたも天国教会の方々と同じようにキリストによる救いをわがものとしていただきたい。心から祝福を祈ります。 |
題「天国への道」ヨハネ14:1-3
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