題「キリストを待つ」エレミヤ29:12-14

 日本の和風月名では、12月を師走(しわす)という。誰もが年の瀬をひかえて何かと気忙しく慌ただしくなる時期のことであるが、昔この月に家々で僧侶を迎えて読経などの仏事を行うため、師が東西に忙しく走り回っていたことがその由来らしい。

 今年キリスト教会暦では、12月3日から24日までは、「アドベント」と呼ばれ日本語では待降節という。これは教会がクリスマスを待つための準備期間であり特別に心して守る。欧米ではまずそれぞれの家庭で大掃除がなされクリスマスツリーが飾られる。常緑樹によって作られる「クリスマスリース(輪)」「クリスマスクランツ(冠)」は、クリスマスの4週前の日曜日から設けられキャンドルに一本ずつ火をつけて、24日(日)には、4本のキャンドル全部に点火する。それによって世の光としてお生まれくださった救い主イエス・キリストのご降誕を待つのである。今年はその日が主日礼拝でもあるのでクリスマス礼拝として高らかに主を崇め賛美することになっている。毎週が楽しみである。

 さて、では私たちは、その日をどのように待ち望むのであろうか。人それぞれクリスマスに期待することはまちまちであろう。子どもたちは、サンタからのプレゼントに夢ふくらませ楽しみにするだろう。青年たちは、恋人と思い出深いサイレントナイトを過ごすことに憧れているかもしれない。お父さん、お母さんは子どもたちと一緒に家庭において特別なご馳走を囲み、幸せなホームクリスマスを何よりも幸せな瞬間として待望しているかもしれない。とにかく誰もがクリスマスを楽しみにしていることだろう。

 一年を振り返り今年も国内外にいろいろなことがあった。私たちのお互いの小さな家庭にも様々な出来事が起こったことであろう。しかし、どのような悲しく辛いことがあろうが、なお心の中に喜びや平安や希望を与えるものがあるとすれば、誰でもそれを欲しいと思うのではないだろうか。それが救い主イエス・キリストなのである。

 今回、開いたエレミヤ書29章はイスラエルのバビロン捕囚の70年間とその後の回復について預言されている箇所である。彼らにとってこの間は、たいへんな試練の懲らしめの時となった。けれども、神の愛から離れていたイスラエルが本心から悔い改め神に立ち返るならば新しいことが起こるのだ。11節にあるように、神が示してくださる「将来と希望」を信じて祈るならば、祈りを聞かれると言われた。13節「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる」と続いて語られている。

 これは直接的にはイスラエルの民への言葉ではあるが、結局、アブラハム契約により導かれて神に用いられるはずのユダヤ人は、捕囚後エルサレムに帰還したものの、根本的な解決はなく民は悶々としながら時を過ごした。そして、覇権国家はローマ帝国に代わり再びイスラエルとエルサレムは破壊され滅んでしまった。それ以来、1948年5月14日、イスラエル共和国が独立宣言を成し再建されるまでは、彼らは世界の各地に離散した民となってしまい多大な苦労と悲しみを経ながら歴史を重ねることになった。第二次世界大戦のドイツのナチスによるホロコーストでのユダヤ人の大量虐殺は記憶に新しいところである。

 そして、現代でもイスラエルが今回のイスラム過激テロ組織ハマスの一方的かつ不条理な攻撃を受けたにも拘わらず、イスラエルの方が悪く世界の嫌われ者のように扱われている。なお反ユダヤの思想が根強くあると言わなければなるまい。今日、すべてのユダヤ人がユダヤ教の信仰があるとはいえないが、アブラハムを信仰の父し、メシア(救い主)が来ることを信じて待ち望んでいる人々は大勢いることであろう。しかし、待ち望んでいるが、メシアは来ない。そして、民族的に苦しみ続けている。しかし、クリスチャンとしては、なおも待ち続けるユダヤの人々のことを思う時、残念でならない。それは、すでに救い主がこの世に来られているにも拘わらず、エンドレスのように長い長い時間だけが流れ救われないまま民族として苦難の時代が続いているからである。

 あるユダヤ教のラビ(教師)がクリスチャンになったそうだ。彼は多くのユダヤ人がなぜナザレのイエスを信じないのかというと、過去の歴史に置き忘れていたメシヤ(救い主は、2000年前にイエス・キリストとして来られたにもかかわらず)を未来、将来に向かって探しているため救われないのだと言った。何としてもユダヤ人にもイエス・キリストを信じ、神の長子として救われてほしいものである。

 イギリスのオールネイションズ・クリスチャン・カレッジの世界宣教学の教授であったマーチン・ゴールドスミス師がこのようなことを話されたことがあった。彼は英国籍はあったが生粋のユダヤ人であった。「皆さん、救い主イエス・キリストは、実にユダヤ人のために来られた救い主なのです」と。私たちクリスチャンは当たり前のように救い主が全世界の人々のためにこの世に来てくださったことは知っていたのだが、この先生は、マタイによる福音書からユダヤ人の救いのために来られたキリストを強調されたのだ。「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」(マタイ1:21)とある。まずユダヤ人のためにキリストは来られたのである。

 そうであるにもかかわらず、どうしてユダヤ人は救い主イエス・キリストを民族レベルで信じないのであろうか。使徒パウロは、そのことについてローマ人への手紙の11章25-29のところでこう語っている。
 「兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奧義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至るまでのことであって、こうして、イスエラエル人は、すべて救われるであろう。・・・神の賜物と召しは変えられることない」とある。

 イスラエルが神に対して心頑なにしたのを神が許し認められたのは、私たち異邦人が救われるためであったのだ。神は私たちの救われるチャンスをご摂理によって与えてくださったのである。そして、それはいつまでも続くのではない。やがてそのチャンスの期間は終わる。その時まで、「今は恵みの時、今は救いの日である」(第二コリント6章2節)とあるように、私たち異邦人はそのことを真摯に受けとめ神のご愛に応えなければならない。「この奧義を知らないではいてもらたくない」と言われたのはそのことである。今年のクリスマスの季節、年末年始において愛する家族や友人たちに、祈りつつ救い主のことを証し宣べ伝えたいものである。

 アドベントは、再臨のキリストを待つ意味もあるが、実にユダヤ人は、地上再臨の前にキリストに帰ることが預言されている。
 「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。・・・わたしたちはみ前に生きる。わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」(ホセア6:1-3)。これは患難時代の終わる最後の三日間のことであるようだ。

 ユダヤ人は長きに亘り神に背を向けて逆らっていた。主イエスもこう言われている。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」(マタイ23:37-39)。と。これは、救い主イエス・キリストが背信の選民イスラエルを拒絶しておられることを意味している。恐ろしいことだと思う。

 けれども、救いのその日、その時、「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈りの霊を注ぐ、彼らはその刺した者(イエスの十字架を仰ぐ)を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のために悲しむ」(ゼカリヤ12:10)とあるように、ユダヤの人々は、未来、将来に向かって救い主を探していたが、そのお方はすでにこの世に来らていたことに気づく。自分たちが十字架につけたあのナザレのイエスこそが救い主であったことを悟るのである。彼らは、胸を打ちながら悔い改めてキリストを信じるようになるのだ。このようにイスラエルは神の前に民族的に回心し救われるのである。この時にこそイスラエルは過去の悲しみの歴史の傷が深いところからいやされることになる。ハレルヤ!!!

 このお方を真剣に求めるならば彼らも救われるのだ。そして、このことは、今日私たちのためのメッセージでもある。このクリスマスのよき季節に、全世界の救い主として来られた主イエスを求めたい。お金や物ではなく、もっと大事なもの、目に見えないが尊いものを真剣に求めていただきたい。

 求めて待つ者は必ず得られるのだ。
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