| 最初から深刻な問題に触れさせていただきたい。2023年版「自殺対策白書」によると、22年の自殺者数は、前年比874人(4.2%)増の2万1881人。男性も女性も増加。小中学生の自殺は514人で過去最多である。厚労省は、要因として精神保健上の問題にあわせて経済、生活、家庭、勤務、学校問題など様々な社会的要因をあげている。今年の日本の人口が1億2330万人。22年に比べて230万人減少しているとのこと。この中に日本脱出をした人たち。寿命や病気、事故で死亡された方々が含められているのではあるが、それ以外に本当は死ななくてもよかったはずの方々が尊いかけがえのないいのちに決着をつけ自死を遂げたことはあまりも悲しく辛いことである。この世の不条理を思わずにはおられない。あなたはどうお考えであろうか。 今日、こんなにも自殺者が多いのは、今を生きることに対して解決を持たないからではないだろうか。人生の光が見えないという心の闇の問題があるからではないだろうか。実際、この世にはいろいろな闇があるように思う。 ①自己中心の闇。人は基本的に自分中心でものを考え行動するものであろう。しかしながら、それがあまりにも過ぎると問題が生じる。家庭内で暴君のように暴力を振るう者、夫婦間のドメスティックバイオレンス、不倫は文化であると豪語し妻や子どもを悲しませている者、歪んだ愛情を異性に抱きストーカーをする者、さらには犯罪の領域に踏み込んで、「おれおれ詐欺」に代表する高齢者を騙してお金を騙し盗る者、強盗、性暴力、殺人等々。今年も日本においても様々な人々の自己中心の闇のゆえに、多くの方々がその犠牲になってきたのではないだろうか。厄介なことは、自己中心は自分の悪や罪がわからず果ては他者に責任転嫁をするのである。 ②悪魔的な闇。ここで悪魔を出すと引いてしまう人がいるかもしれないが、このあまりにも邪悪で奸悪な時代のことを説明する時、やはり悪の勢力の働きを認めざるを得ないのではないかと思う。聖書にこう記されている。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」(第1ペテロ5:8)とある。多くの人々はこの類のことは非科学的な事として失笑に付し、心を閉ざし聞く耳を持とうとしない。しかし、ぜひ考えなおしてほしい。 悪魔は嘘つきである。悪魔は人間の思いの中に働きかけ、個人的な罪や悪に誘うのみならず、国家や民族の政治思想、宗教、教育などの世界にも巧みに入り込みいつの間にか人間に多大な影響を与えているのではなかろうか。その印として世界的に目立ってきた左翼的な思想の傾向が強くなってきている現在を思う時、悪魔・悪霊どもの反神的な仕業が見え隠れしているように感じている。また、過激なカルト団体が複数なお活発化している。多くの人々が継続的にその餌食になっている。さらに、小さいように見えて青少年たちが接触する機会が多い占いやオカルトも問題である。遊びのつもりやっていてもいつの間にか思いや生活を支配されてしまうことがある。霊媒や口寄せなどは神が大いに嫌われる悪業であることも知らなければならないと思っている。 ③死の闇。ほとんどの人は死の恐怖という闇の中にいるのではないだろうか。確かに人間は、老いも若きもいつ死ぬかわからない。この世にはいろいろな統計があるが、死ほど100%の確率で誰にでも訪れるものは他にない。また死んだらどうなるかも多くの人たちは知らないのだ。考えてもわからない。だからそんなことは忘れてしまって、目の前のことをできるだけ愉快に、明るく、おもしろくやって行こうとするのである。でもどうしても心の闇を取り払うことはできない。恐れがそこにあるのだ。ここに人の心の内面の不幸がある。 そこで、聖書に聴きたい。 さて、イザヤ8章は、「また地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみのやみとがあり、彼らは暗黒に追いやられる」(22節)という言葉で終わっている。しかし、9章は、絶望から一転して希望の預言になっている。なぜなのか。背景を説明すると、北イスラエル王国と南ユダ王国が分裂して以来久しく時は流れていた。その時代、なお続く両国の緊張関係に合わせて近隣諸国との戦々恐々とした一触即発の状態にあった。1節の北イスラエルの「ゼブルンの地とナフタリの地にはずかしめを与えられた」とは、BC734年-732年のアッスリヤ帝国の強力な王ティグラテ・ピレセルの侵攻を意味していると思われる。 北と南が犬猿の関係であったので南ユダのアハズ王はアッスリヤに援助要請を求めた。それを受けたティグラテ・ピレセルは、ロシアがウクライナに侵攻したように、北の領土であるナフタリの全土、ガリラヤからギルアデまで南下して、それらの地方の住民をアッスリヤに捕え移した(列王下15:29)。ナフタリは、大きな地域である。レバノンからガリラヤ湖、北ヨルダンに及ぶ。ゼブルンは、その南西の境に接しシャロンの平野の中央部に面していた。ナフタリを占領したピレセルは、当然のようにゼルブンを攻め取り、さらに地中海岸沿いに南下した。残された北イスラエル領はサマリヤを中心とした山間部地域のみであった。捕虜として連れ去られた住民以外は、アッスリヤ支配地の三地域に編入された。なんという国家的災厄であろう。 1節の「海に至る道」とは、(ドル)、「ヨルダンの向こうの地」とは、(ギルアデ)、「異邦人のガリラヤ」とは、(メギド)のことである。このような状況においては、民は8章22節にあるように絶望するしかないであろう。しかしながら、その現実の中でイザヤは暗黒に差し込んでくる光を見たのである。「暗やみの中に歩んでいた民」、「暗黒の地に住んでいた人々」とは、アッスリヤの侵攻の結果、民が如何に凄惨な出来事に絶望していたのかを示している。ところが、注目したいところは、「見た」「照った」とは、預言過去、完了形が使われており、イザヤはその光をこのようなどん底にありながら、すでに信仰によって見たのだ。 福音書の記者マタイは、主イエスの救い主としての公生涯の最初にこの預言の言葉を引用している(マタイ4:15,16)。この光の到来の喜びは、人々にとって「大きくされた」(3節)ものである。それは、人間が自分たちの努力で得られるものではない。神がしてくださる出来事のゆえに、神の前に喜ぶことができるのである。その大いなる喜びは、メシア(救い主)の誕生である。「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり(この世を支配する者)、その名は、『霊妙なる議士(驚くべき知恵のお方)、大能の神(神ご自身)、とこしえの父(父なる神と同一)、平和の君(父なる神と平和を与えるお方)』ととなえられる」(6節)。これはクリスマスの預言である。 このように約束の救い主イエス・キリストは、実に預言の成就者としてこの世にお生まれになられたのである。ハレルヤ!さあ、お互いに年の終わりを迎えている。私たちになお闇の世界はないであろうか。闇の中に縛られ支配されているようなことはないだろうか。ぜひ今日の御言葉に心をとめていただきたい。 この光は、人の心を照らす霊的な光である。神からの光である。クリスマスの出来事を証した使徒ヨハネは、「すべての人を照らすまことの光があって世に来た」(ヨハネ1:9)と語っている。主イエスは人の闇を照らすために来られた。また「わたしは世の光である。わたしに従ってくる者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光を持つであろう」(ヨハネ8:12)と、私たちを招いておられる。キリストは、真理の光をもって、私たちの心を照らし、自己中心が罪であることを示し、悪の勢力との関わりが不幸であることを示し、死を恐れなくてもよい世界があることを示してくださるのである。光を信じ受け入れる時、闇は去っていく。救い主は、十字架の愛の光をもって、信じる者の罪を赦し、神の子としてくださり、また復活のいのちの光によって、信じる者には永遠の天国(神の国)で住まうことができる希望に生かしてくださる。キリストの光は、今日もあなたを救いあなたの心の内に輝くことができるのである。 |
題「大いなる光」イザヤ9:1-3
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