題「十字架の道」ヨハネ12:12-33

 20代の頃、普通運転免許を取得した。自動車学校に通ったのだが、ある教官と話をしていてこちらがクリスチャンであることがわかると、彼は興味を持ったようでこう言った。「信者の人は皆クリスチャンになってよかったと言うなぁ。何がえぇんで?(いいんですか)」と。未熟な青年クリスチャンは、一応信仰を持つことによる「平安」とか「喜び」についておぼつかない言葉で話したことを記憶している。  

  一般的に何らかの宗教に救いを求める強い動機として、なんとしてもご利益が欲しいということではないかと思う。そこで昔から言われてきたように、「無病息災・家内安全・商売繁盛・五穀豊穣・天下泰平」を信仰の結果、もたらしてくれる宗教を信じようとするのではないだろうか。しかし、そういうことだけを願っている人は、本当のキリスト教はわからないと思う。「信者」という漢字を横に並べると「儲ける」という字になる。神を信じる信仰を持つことによってお金を儲けて、大きな家を建て、よい車に乗り、よい生活を享受することができると考えているならそれは大きな思い違いであるといわなければならない。少なくてもキリスト教はそのような信仰ではない。

 「じゃぁ、私は関係ありません。そんなご利益がないような宗教なんて信じる価値なんてありません。もう結構です」と、言わないでいただきたい。イエス・キリストが私たちに与えようとしておられる救いはそれらのもの以上のものであることを知っていただきたいのである。

 イエス・キリストを自らの救い主として信じクリスチャンとして歩んでいくならば、 その信仰の結果として、経済的にも物質的にも祝福されて必要を満たされるという体験談は多く聞くところである。信者になって貧乏になったという話は聞いたことがない。けれども、確かに生活の必要が満たされることは大事なことであるが、それが目的ではない。私たちにとってさらにもっと尊い良きものが与えられるのである。

 ヨハネによる福音書12章12節以下のところでは、主イエスが十字架の道を歩むためにエルサレム入城をなさる様子が記録されている。興味深いことは、23,24節で語られている主のお言葉は、人々にとって互いに顔を見回すほどに意外であったことである。
 「人の子(キリスト)が栄光を受ける時がきた。よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」と言われた。そして、33節「イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである」とある。これから救い主としてご自身が生きて活躍するのではなく死ぬことを述べられたのである。  

 これらの言葉を聞いた弟子たちはどのように受けとめたのであろう。大いに驚き動揺し失望し主に躓いてしまったのではなかろうか。少し前、しゅろの枝を手にとり歓呼の声をあげたユダヤ人は、彼をダビデの子であり救い主として歓迎した。それはこの世における政治的、軍事的解放者を意味していた。それまでも時々この人こそメシヤ・救い主ではないだろうかと思われる人々が登場したことはあった。だがすべて期待はずれに終わった。しかし、民衆はこの度は違うと感じていた。ナザレのイエスのような人物はこれまでいなかった。このお方に比べ得る人は一人もいなかった。ナザレのイエスこそ自分たちの救い主に違いない。多くのユダヤの群衆は、かつてのイスラエルの栄光を再興することができるメシヤとして救い主としてイエスに期待したのだ。弟子たちも同様であった。つまり、当時の人々は狭い意味でこの世における救いと解放を求めていたのである。

 聖書にこう記されている。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの道よりも高い」(イザヤ55:8,9)とある。主イエスは、人々が心に思い描く「救い主の道」ではなく十字架の厳しい道を歩むためにこの世に来られたのだ。また、地上的あるいはユダヤ人だけの救い主ではなかった。キリストが十字架の道を歩まれ人類に与えようとされる良きものは、現世的ものではなかった。地上の人生において人間が魂の深いところから求めている救いのみならず来世(天国・神の国)にも続く救いであった。それは永遠の生命につながる。そして、このイエスの救いの対象はユダヤ人だけではなく全人類である。「すべての民に与えられる喜び」(ルカ2:10)を告げ知らせるために、クリスマスの夜、天の使いはユダヤの羊飼いたちに現れた。

  そして、そのために神がご計画された救いの法は、ただ一つ十字架だけであった。「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」(第1コリント1:18)。ここでイエスは、最も悲惨な、最も屈辱的な、呪いそのものである十字架の道を歩んでおられる。これから彼は反対者からつばきされ、むち打たれ、いばらの冠をかぶられ、十字架を背負わされ、死刑場への道(ゴルゴタの丘に向かう)を進んでいかれるのである。キリストは私たちのために苦難の僕として用意された細く狭い一本の十字架の道を選ばれたのである(イザヤ53章3-7節)。私たちは、救い主がそのような苦難の道を辿られることに戸惑い不信を抱く。なぜ十字架なのか。  

  20世紀の後半、人間は二回の世界大戦を経て、二度と世界を不幸にひきずり込むような戦争などしてはならないと誓ったはずである。しかしながら、21世紀になっても世界から戦争と争いはなくなることはない。そして、二年前ロシアのウクライナ侵攻の蛮行を見た現代人は、人間のどうしようもない罪の性根があることを思い知らされたのではないだろうか。確かに人間には罪の性質がある。全世界の人々の血の中に流れているアダムの原罪のDNAは、人間ではどうすることもできない。これが人類の不幸の元凶である。この罪が人間の歴史を血で染めてきたではないか。

 独裁者であったローマ皇帝のネロ、ナチスのヒトラー、ロシアのスターリン、中国の毛沢東、そして、近年のイスラム過激テロ組織ハマスなどのおぞましき罪は、人間を不幸のどん底にたたきつけてきた。それだけではなく、普通何もない時代に、おとなしい羊のような一般市民が、国家レベルで政治的・環境的状況が激変し一度戦争になるならば、恐ろしい鬼や悪魔のような人間に化身して、敵国や他民族を呪い攻撃する。それは特別な人たちではなく、通常平和で普通に生活している人たちがそうなるのである。これでも人間には罪はないとでも言うのだろうか。

 これは人間が創造主である神に背を向け自分勝手に生きるようになった罪の結果としての現実である。これらの罪は、決して放任されてはならない。「人間ってそういうものなんだから、しょうがないよね」では済まされない。罪はどこかで裁かれなくてはならない。正義は貫らぬかれなければならない。この世においても人間社会での法があり、悪と罪は裁かれて刑罰を受けなければならないだろう。それがなければ社会秩序は保たれ成り立たなくなる。そこで、創造主である父なる神は、この世におけるこのおぞましき人間の罪を解決し救うために、2000年前ご自身が乗り出し、イエス・キリストの十字架の出来事によって救おうとされたのである。

 全人類の罪を身代わりに負われる神の子キリスト以外に私たちの罪を贖い救うことはできない。神の子キリストのいのちの犠牲と引き換えに、罪人の赦されざる罪が赦されるという唯一の救いの道なのである。彼が正義の父なる神に捨てられることによって、私たち罪人が拾われるのである。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは、御子を信じるものがひとりも滅びないで永遠の生命を得るためである」(ヨハネ3:16)。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」(第一ヨハネ3:16)。

 私たちの罪は、人間の努力や難行苦行、修行、研修や莫大なお布施でどうにかなるものではない。絶対者である神であり、唯一の救い主イエス・キリストによる救いでなければ人間存在の深いところに巣くっている原罪から解放されることはない。  

 受難週の最初の日、この時、イエスのみ思いはどうであったのだろう。27節「今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしのために、この時に至ったのです。父よ、み名があがめられますように」と。 ここで主イエスは、憐れな泣き言を述べているのではない。「わたしは十字架にかかるためにこれまで生きてきた」と言っているのだ。何というご決断。しかし、なお主は人間イエスとして内面の葛藤があった。主はたった一人でその重圧と闘っておられるのである。この時イエスの精神・心の状態は尋常ではなかった。
 それほどまで苦悩され私たちのために父なる神から与えられた御使命を全うしてくださったのである。一方、弟子たちといえば、この重大さを悟らずとんちんかんなことを言っている。

 「キリストの心をわが心とせよ」(ピリピ2:5)とあるが、十字架を目の前にして、なおこのような弟子たちの姿は、情けなく滑稽にさえ見えるが、それをとおり越してあまりにも悲しい。しかし、これが罪人の実態なのであろう。今日、私たちも聖霊の助けなしに十字架のことはわからない。実にイエス・キリストは、そのような弟子たちのため、私たちのため十字架に自ら進んでおつきになられるのである。

 この年、お互いに祈りつつ聖書の福音書を読み、キリストの十字架の道を辿りながら、その意味を深く知ろうではないか。四旬節(受難節)を教会暦で守るということは、そういうことである。祝福がありますように。
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