英国の政治家、作家ジェフリー・アーチャーの「カインとアベル」は、1979年に発表した小説である。テレビドラマになり日本でも放映された。内容は、20世紀の現代史を背景に、生い立ちが異なる二人の主人公がやがて互いに運命が交差することになり、権力闘争と復讐劇仕立てになっている。物語の最後は、アベルが生き残りカインが死ぬ。聖書とは真逆である。
聖書の物語では、アベルは信仰の人で、カインは信仰のない宗教的な形だけの人。この小説では、アベルとカインには血縁関係はないが、仕事上でカインがアベルを援助してくれないのを恨みに思いアベルはカインへの復讐心に燃える。しかし、後にカインが死んだ後、アベルは事実を知ることになる。なんとカインが自分を見捨て援助しなかったのではなく匿名で融資し救ってくれた事実を知り愕然とするのである。
ここで意外な結末に観衆は涙するのだ。このドラマでは、驚くことにカインが良い人として描かれている。思うことは、世の人というのは、聖書中の出来事を題材にしながらもなんでも自由自在にお話を作るということだ。このドラマを聖書と関係していると思いこんで観た人たちは何を期待したのであろうか。
さて、先日は人類の母となったエバに学んだ。彼女は、幸せな家庭をつくるためにアダムと共に二人の息子を得た。彼らの悔い改めを経て与えられた大切な命であった。祝福された印としての出産であっただろう。ところが同じ親から生まれた子どもであるが、親の思うようには育ってくれなかった。弟アベルは何とか両親の人生観と宗教観を継承して大人になったようであるが、カインは違っていた。神と親を畏れ敬うどころか、不遜な男で自分勝手な大人になっていた。
そのカインが弟を殺害したことはすでに承知のとおりである。
「カインは弟アベルに立ちかかって(襲いかかり)、これを殺した」(4:8)。このカインの殺人の動機は何であったのか。やむを得ない事情があったのか。情状酌量の過失の殺人であったのか。また生きるためにやむなく自己防衛的なものであったのか。いずれも当たらない。それは、神への反発の怒りからであった。そして、その怒りの根っこは弟への嫉妬心であった。しかもその妬みは、宗教的なことに関するものであったのだ。「主はアベルとその供え物を顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた」(4:4,5)。
恐ろしいことは、カインは神認識を持っていたにも拘わらず、王の王、主の主である神の御前においてですら、アベルのことを妬んで罪を犯すことができたということである。罪の怖さがここにある。
この妬みのためにカインは、反省を促す神の声すらも耳に入らぬほど怒り狂っていたのだ。「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか、正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」(4:6,7)と。
罪を犯す人たちについてネットで言いたい放題のことを載せている人たちがいる。「犯罪者は人相でだいたい特定できる」、「殺人者は人を殺すような顔をしている」、「人殺しは、目つき顔つきでわかる」と。しかしながら、このような人たちは、全く自分とは関係ないように上から目線で犯罪者を見下しているが、これまでの人生において、本当に自分自身、誰かに対して殺したいほどに憎み妬ましいと思ったことはないのだろうか。
本当は、過去に思ったことがあるのに都合よく頭から消去しているのではないだろうか。実際に相手に手を下さないだけで、冷や汗もので一歩手前で立ちどまってきたのではなかろうか。
そういう時の顔の形相は自分には見えない。おそらくそのような自分の顔は誰でも見たくないのだ。あの日、悪意を心に秘めて、弟を野に誘い出し、無防備の弟に、突然襲いかかったカインの顔は、最も醜悪で恐ろしい表情であったことだろう。
その同じような表情が私たちの顔にも一度ならず何度も浮かんだことがあるのではないか。その意味では、私たちも、「カインの末裔」なのである。
「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(ローマ3:23)とあるとおりだ。そのような現実を認める時、私たちは、イエス・キリストの救いと贖いの十字架を仰がざるを得ない。「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」(第一コリント1:18)と。
さて、スウェーデンの作家ペール・ラーゲルクヴィストが、1951年度ノーベル賞文学賞小説「バラバ」を書き下ろした。バラバとは、聖書に出てくる犯罪者のことで、その半生を描いたものである。バラバも歴史的に間違いなく「カインの末裔」の一人であった。この小説が、1962年米国・イタリヤ合作で映画になった。主演は名優アンソニー・クイン。メキシコ系の米国人(1954年 フェリーニの道、1961年 ナバロンの要塞、1962年 アラビアのロレンスで知られている)。
この映画を、私は小学生の頃、母と一緒に観た。日本語の字幕映画なので、あまり大人の会話はよくわからなかったが、母がとても感動したようで、終わったてからよく映画の印象と感想を話していたことを覚えている。子どもでも教会学校の生徒であるので、イエスさまが十字架につけられ死んでしまったが、その代わりに罪人のバラバが救われたことは知っていた(ルカ23:16-23)。
さあ、この映画のあらすじを紹介するとこうである。「2000年前のユダヤのエルサレム。暴動を起こし殺人を犯した強盗バラバは獄中の身にあった。しかし、毎年この時期に総督ピラトはユダヤの人民の人気取りで、罪人を一人裁く代わりに別の一人の罪人を恩赦で放免することにしていたのだ。
バラバは、なんと義しき人ナザレのイエスの代わりに救われ自由の身になるのだ。彼はかつての愛人レイチェルと再会するが、彼女は既にキリスト教の信仰に目覚め、バラバにも悔い改めて回心することを諭す。しかし、バラバはイエスのお陰で救われたにも拘わらず、それを拒否し口汚く罵る。
レイチェルは信仰深く、主の十字架を仰ぎその向こうにある復活を待ち望む信仰を堅持していた。三日目の朝、彼女はパラバとイエスの墓に向かうとイエスのご遺体は消え失せていた。墓は空であったのだ。バラバは、誰かが持ち去ったのだと言って、復活を信じようとはしない。やがてレイチェルが他の信者たちと共に捕らえられ処刑されると、バラバは荒れ狂い再び捕らえられてしまう。一時期、シチリアの硫黄鉱で強制労働に従事させられる。地獄のような苦役を生き抜きバラバと知り合った信者であったサハクは、総督のはからいで剣闘士養成所へ入れられる。後にサハクは闘技場にて相手と闘う段になったとき、信者であるゆえに殺害することを拒否した。それが反逆罪となり処刑されてしまう。怒ったバラバは、友人を死に至らしめた隊長を倒す。
皇帝の命により自由人となったバラバは、サハクを葬った後、ローマの大火に巻き込まれてしまう。この最中、バラバは他の信者たちと共に放火の罪で捕らえられ十字架にかけられさらし者になる。そして、最後は、「マイ ネイム イズ バラバ・・・すべてを委ねます」と言いながら救い主を信じて安らかに息を引き取るのだった」
この映画は、フィクションである。しかし、大事なことは、バラバが主イエスによって救われたという事実である。これは客観的な大きな事実である。あの日、あの時、一人のカインの末裔が、イエス・キリストに代わって救われて生き延びることができたのは彼だけであった。
だが映画の中でもバラバはなお救い主に対して頑なであった。サハクがバラバに「おまえが生き延びたのは神の御心だ」と言っている。しかし、彼はイエスを否定し、反抗し、決してイエスを信じようとはしなかった。この辺のところはリアルではないだろうか。しかし、バラバは、最後には、すべてを十字架の上でイエスさまに委ねたのである。
この結末は、実に聖書的であると思う。この映画は、バラバのような男でも救われるチャンスがあることを教えている。そして、人間が他人のことではなく、真の自分の本性を知った時に、もはや自分自身で自己救済ができないことを認めざるを得ないことを指し示している。今日、神は、私たち「カインの末裔」をも救いに招いておられることをしっかりと覚えたいと思う。救いはここにある。
