| 勝利の復活の主を崇めて感謝したい。 一般的によく言われることに、「キリストの復活だけは信じられない」というのがある。 復活は神の御業である。理屈では納得できない。科学や物理法則の枠を超えた出来事であるので、人間の理性や論理では理解しきれないことは当然のことであろう。しかも所謂蘇生ではなく完全に死亡してしまった者が、死後三日後に甦ることなど容易に信じられるものではなかろう。 しかし、使徒パウロは、「もしキリストがよみがえられなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もむなしい」(第1コリント15:14)と語っている。キリスト教において復活が核心的要素であることを示しているのだ。 「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」(同15:17-19)とも記されている。 ところが、当初イエスの弟子たちでさえ復活した主イエスに会うまでは信じられなかった。週の初めの日の朝早く、主はよみがえって、まずマグダラのマリヤに会われた。彼女は、それを人々に知らせるが、彼らはその話を信じなかった(16:11)。13節でも、「信じなかった」とある。 その後、主は11弟子に現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになられた。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである(14節)。 弟子の一人トマスは、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」(ヨハネ20:25)とまでも言っている。 それほどに、キリストの復活は、弟子たちの常識と経験を飛び越えた大事件であった。死人が甦るはずがない。死は最終であって、誰も死には勝てない。これは古今東西を問わず、世界の常識、不動の事実であって、それは弟子たちにとっても例外ではなかったのだ。 キリスト教というのは、ある意味でこのような不信仰な弟子たちから始められたといって過言ではないと思う。 実に不信仰の負の力は信仰のいのちにより飲みつくされたのである。彼らの心に堅く根を下ろしていた頑なな不信仰の大石は、一気に取り除かれたのだ。 それは、かつてのラザロの甦りの出来事を思い起こさせる(ヨハネ11:17-44)。 主は、ベタニヤのマルタ、マリヤ、ラザロとは特別に親しい関係にあったようである。主は彼らを愛しておられた。その愛すべき存在のラザロが病で死んでしまった。姉妹たちは、早い段階でこの事を主に伝え助けを求めていたが、なぜか主は行動されなかった。なんと死んでから四日後、遅れてベタニヤに着かれた。 彼女たちは「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったことでしょう」(11:21,32)と痛恨の極みの思いを吐露した。 近隣の人々は、大勢姉妹たちを慰めるために集まっていた。ある人たちは、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」(11:37)と責めるようなことを言った。 主は、その前に、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(11:25)とマルタに言われた。だが、マルタにとって、その言葉を真に理解することはできなかったのである。姉妹たちは、ただ嘆き悲しむだけであった。主は、その死に打ちのめさせられた様子に激しく憤り嘆息して涙を流された(11:33-38)。 そこでイエスは不信仰な人々にお命じになられた。「石を取りのけなさい」(39節)と。マルタは、それは意味がないと吐き捨てた。それに対して主イエスは毅然としたお姿で、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」(40節)と強く促された。すると「人々は石を取りのけた」(41節)とある。これは、彼らの不信仰の大石を取り除いたことを意味している。主の復活の御力を信じたのだ。そして、「ラザロよ、出てきなさい」(43節)との主の御言によってラザロは甦って人々の前に出てきたのである。信じる者は幸いである。 ①信じる者は救われる(16節)。「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰な者は罪に定められる」。難行苦行にあらず、ただ恵みによる信仰によって人は救われるのである。 ②信じる者には勝利が与えられる(17節)。「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。信じる者に聖霊による賜物が与えられる。 ある人は、神癒の賜物、悪霊へのパワーエンカウター、異言(御使いの言葉)、へびをつかむような嫌なことに関わり合うこともある、煮え湯を飲まされることもあるが、しかし、主に守られ導かれいろいろな事を乗り越えて勝利することができるようにされる。すでに心に潜む不信仰の大石が除かれているからである。ハレルヤ!!! |
題「除かれた大石」マルコ16:1-8
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