| 新年度になって二週目、たいへん興味深い箇所を学びたい。 旧約時代と新約時代の間には、400年間の隔たりがある。しかし、「ローマ皇帝テベリオの在位の第15年」(1節)、歴史への神のご介入が再開されることになった。これは画期的時代の幕あけを意味している。 その年、「神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ」(2節)のである。それは、AD28年,29年頃になる。 ローマ帝国から派遣されていたポンテオ・ピラトがユダヤの総督であったのは、AD26年-36年頃。ローマの笠を着た時代のこの頃、ヘロデ大王の亡き後、ヘロデ・アンティパスが、ガリラヤ(ユダヤの北)とベレヤ(ユダヤの北東)の領主《国主》であった(BC4年-AD39年頃)。彼の兄弟ピリポは、イツリヤとテラコニテ地方(ガリラヤの北東)の領主《国主》であった(BC4年-AD34年頃)。ルサニヤはアビレネ(テラコニテの北)領主《国主》であった(AD25年-30年頃)。それぞれの領主が狭い領域を支配した国土寸断の時代であるといえる。かつてのダビデ王・ソロモン王時代のことを考えると大きな違いである。 一方宗教界では、本来ユダヤ教の大祭司は終身制であるが、ところが、ローマの国家権力が介入して、アンナスを退職させた。変わってカヤパが大祭司になるが、ユダヤ人の中ではアンナスの職が継続しているとみなして、かなり権力をふるっていた。主の受難週の木曜日、捕縛されたイエスは、最初にアンナスのところに引き連れられた。彼が大祭司カヤパの舅であったことが、ヨハネ18章13節に記されている。ここでもルカは二人の大祭司がいたと記している。 そのような時に、ヨハネは神の言を聴いたのである。それは国の体制を変えるために独立運動をすることでも、不平等な社会を根本的に変革することでもなかった。 「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道をまっすぐにせよ』。すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、わるい道はならされ、人はみな神の救を見るであろう」(3:4-6節)とイザヤ書40章3節にある預言の御言が彼の心に響いた。 「荒野で呼ばわる者」とは、バプテスマのヨハネのことであり、彼の使命は、「荒野で呼ばわる者の声」として「主の道を備え」、人々に救い主を受け入れる(信じる)心の備えをさせることであった。彼は、メシヤ(キリスト)の先駆者として,来るべき王の王、主の主のために道備えを促し、先駆の警告者としての役割を果たすために生まれてきたといってよい。 この旧約聖書のイザヤの預言の言葉は、ヨハネにおいて成就するのである。そして、バプテスマのヨハネのメッセージは、明確であった。人々に罪の赦しを受けるために悔い改めることと、バプテスマを受けることであった。 「まむしの子よ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔い改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起こすことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げこまれるのだ」(3:7-9節)とヨハネは語っている。 ヨハネは、神の国が近づいていることを宣べ伝え、イスラエルの間違った選民意識を正した。血統や宗教的な特権に頼ることは無意味であること。ユダヤ人は自動的に救われないこと。神はその気になれば、石ころのように見做されていた異邦人や罪人からでも選民を起こすことができること。生きた真の信仰が求められることを指し示した。さらには、神の裁きが近いと警告し、その象徴としての斧が木(イスラエルの象徴)の根もとに置かれ、切り倒されようとしていると語った。 多くのユダヤ人が、神の国が到来したらユダヤ人は皆入れると考えていたのだが、そうならないことをヨハネは厳しく指摘した。では、「悔い改めにふさわしい実を結べ」とある「悔い改める」とはどういうことなのだろうか。ヨハネは抽象的なことは語らなかった。 ①群衆に対しては、衣服や食物を貧しい者に分け与えること(11節)。自分たちだけの生活の安定と幸福を求めるな。 ②取税人には、不法な税を取り立てないこと(12節)。取税人の仕事には、利権が絡んでいた。彼らは不正な役得として人々から税を多く取り立てて上前をはね私服を肥やしていた。そのような不義をするな。 ③兵卒たちには、武器で人を脅して責めてはならないこと(14節)。ローマ兵は、しばしば虐待行為をし、略奪を働いていた。武器で人を脅して好き勝手なことをするな。 これらは、実に具体的である。一つひとつが悔い改めの結果だ。 モーセの十戒に照らして、親不孝していた者は、神と両親に謝る。親孝行者となる。盗みをした者は、もう盗まない。神と人に詫びる。姦淫した者は、その罪を謝りもうしない。神に赦しを求める。 ヨハネの悔い改めのメッセージは生活の変化を求めるものであった。 「悔い改めにふさわしい実を結べ」(8節)とは、そういうことである。そして、それは三つの側面がある。 ①過去の罪や過ちを後悔ではなく、改めてどこへ行くか、その目標をはっきりさせることである。 人生の方向転換。 ②心の入れ変え。感情と理性と意志において、心を入れ変えて生きること。 目に見える状況が、人生のスクリーンであるとするならば、それに映す心のスライドを入れ替えることである。 人生の価値観、優先順位などを聖書の御言や神さまによって入れ替えることである。 ③存在の造り変え。新しい自分として信仰の結実を与えていただくこと。 「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」 (ガラテヤ5:22,23)とある。 しかし、ヨハネはここで、「自力で善人になって出直しをせよ」と言っているのではない。善い人になったら救われるのではない。自分は無力であること。罪深い己を神に委ねて謙虚に信頼することなのである。「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」(マタイ19:26)と記されている。何よりも大事な秘訣は、「信仰によって」ということである。 「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである」(エペソ2:8,9) |
題「御国に入る用意」ルカ3:1-9
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