題「泣き続けた男」マルコ14:66-72

 受難週の木曜日の夜、イスカリオテのユダの裏切りで、主イエスは敵に捕縛された。その時、「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った」(マルコ14:50)とある。この福音書を書いたと思われるヨハネ・マルコは、14章51,52節によると「裸で逃げて行った」とある。 12弟子が皆人生の師を見捨てたのである。

 最後の晩餐の席上、「ペテロは言った、『たといあなたと死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません』。弟子たちもみな同じように言った」(マタイ26:35)とある。熱心で確信に堅く見えたとしても何と人間の決心というものが脆いものであるのかを知らされる。

  ところが、蜘蛛の子を散らすように弟子たちがいなくなった後、ペテロとゼベダイの子ヨハネの二人が、捕らわれの身となった主に着いて行ったと記されている(ヨハネ18:15)。「シモン・ペテロともうひとりの弟子とが、イエスについて行った」とある。

 ヨハネは、大祭司の知り合いであったのでイエスと一緒に大祭司の中庭に入ることが許されたようだ。一方ペテロは、外の戸口に立って遠まきに気になっている主を見ていた。するとヨハネがペテロに気づいて、門番に話してペテロを中庭に入れてやった。ペテロにとっては、この場所で「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」(マルコ14:72)との主の言葉が成就することになる。経過を見てみよう。

 1.大祭司の女中のひとりが、「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」と言った。
  それを打ち消して、「わたしは知らない。あなたの言うことがなんの事か、わからない」と言った(14:66-68)。

  2.先の女中が再び他の人々に、「この人はあの仲間のひとりです」と言う。
ペテロは、再びそれを打ち消した(14:69-70)。

  3.複数の者たちがペテロに言った。「確かにあなたは彼らの仲間だ。あなたもガリラヤ人だから」と。
   東北なまり、アラム語が印となったと思われる。
  ペテロはそれに答えて、「あなたがたの話しているその人のことは何も知らない」
  と激しく誓って言い切ったのである。

 「するとすぐ、にわとりが二度目に鳴いた」のである。「ペテロは、『にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた」(14:72)と記されている。

 この時の様子をルカはこう記録している。「主は振り向いてペテロを見つめられた。そのときペテロは、『きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われた主のお言葉を思い出した。そして外に出て泣いた」(ルカ22:61)とその様子を報告している。

 これらの箇所により思わされることは、多く人々が指摘するペテロのしくじり、彼の恥、失敗ではなく、彼の悔い改めによる回復である。

 主イエスの「御目」は罪を罰する目であるとともに、それ以上に赦しと救いの恵みでもある。

 「『見よ、主なる神の目は、この罪を犯した国の上に注がれている。わたしはこれを地のおもてから断ち滅ぼす。しかし、わたしはヤコブの家を、ことごとくは滅ぼさない』と主は言われる」(アモス9:8)。

 「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる」(歴代下16:9)。

 主イエスは、主を拒み主を離れて滅びの道へまっさかさまに落ちて行こうとするペテロを見つめられた。主は愛に燃える御目で振り返って彼を見られた。その視線は悪魔に魅入られたペテロの心を刺し貫いて、その心底まで届いたことであろう。そして、そこに深刻な悔い改めの思いが起こった。それは全身からの涙となって表れ出たのである。

 滅びの器はここで一気に引き上げられていったのだ。
「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」(詩篇51:17)とある。

 「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)と言われた主は、特別な顧みをペテロの上に留められた。

 やがて、主が十字架の死を経て復活された朝、天の御使いは主のご命令を伝えてこう言っている。 「今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」(マルコ16:7)。

  ガリラヤ湖の岸辺で弟子たちに現れた主は、格別にペテロを顧みて、彼の献身を確かめられた。ペテロが三度主を否もうとした時、彼は暖をとるために火にあたっていた。ペテロは主のことが気になりながらも遠いところに離れていたのであろう。(マルコ14:67 ペテロが火にあたっているのを見ると)、しかし、ここでは主イエスは彼らの裏切りを責めるのではなく、嘲るのでもなく、ただ火をおこされて弟子たちの食事の世話をされた。「彼らが陸に上がって見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった」(ヨハネ21:9)。このそれぞれの場面(シュチュエーション)が興味深い。

 ここでは火のそばで、ペテロに主への愛を確認されたのである。(ヨハネ21:15-18)。

 1. 「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」(15節) 
   「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」

 2,「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか」(16節)
  「主よ、そうです。わたしを愛することは、あなたがご存じです」

 3.「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか」(17節)。
  「イエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った。
  『主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています』

①「わたしの小羊を養いなさい」(15節)
②「わたしの羊を飼いなさい」(16節)
③「わたしの羊を養いなさい」(17節)。

 「わたしに従ってきなさい」(21:19)、「あなたは、わたしに従ってきなさい」(21:22)と。人生最大の失敗と躓きを体験しし泣き続けた男、あのペテロは、悔い改めと回復の信仰によって再び立ち上がることができた。私たちもどんなことがあっても、愛と真実の神の御許を離れてはならない。悔い改めと回復の信仰を忘れてはならないのである。

「涙も恵みに 報いがたし この身をささぐる 他はあらじ」新聖歌115 「ああ主は誰がため」5節
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