| エルサレムに異邦人聖書研究所がある。1994年、そこで「最後の晩餐(過越しの食事)セミナー」を受ける機会を得た。主イエスが主催した過越しの食事とユダヤの一般家庭での過越しの食事を体験することができた。 特に主が弟子たちと共にされた過ぎ越しの食事の順序にも一つひとつ意味があり、その解説は実に興味深かった。 そして、最後の晩餐の席順で主人(イエス)の左側に着いたのは、イスカリオテのユダであったのだが、そこは主人にとって最も「大切な客」の定席であった。イエスを裏切るユダがそこに迎えられたことには深い意味があると思われる。 そもそも12弟子に選ばれておりながら、主を裏切ったユダについては、謎に包まれている。彼も最初は純粋な心をもって主イエスに従ったのであろう。だがそこにはいつも野心がつきまとっていた。イエスをローマ帝国から解放する政治的な救い主ユダヤの王として祭りあげて、あわよくば自分も一旗揚げて成功者になりたいと願っていたのではないだろうか。 しかし、主は受難週の初めの日曜日、エルサレムに入城しながらもメシヤ(救い主)として何も行動を起こされなかった。業を煮やしたユダは、ついに我慢できなくなり、イエスに失望し幻滅して、最後は奴隷売買の金額銀貨30枚で人生の主であるはずのイエスを敵に売り渡し自ら奈落の底に落ちて行ったのである。「人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」(14:21)とあるが、ある人はなぜ主はそのような人を弟子として選んだのだろうかと訝る。果ては同情する人たちもいる。ユダがイエスの弟子でなかったならばこんなことにはならなかったのに、という訳である。 しかし、このようにも記されている。「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」(ヨハネ13:1)と。裏切りという悪魔の策に支配されてしまったユダではあったが(ルカ22:3、ユダにサタンが入った)、なおも過越しの食事の最中ですら、彼に悔い改めの機会を与えようとしておられた。本人の特定ができないように配慮しながら、「あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(14:18)と。主のお心は最後の晩餐まで変わらなかった。 それにも拘わらずユダは主のこの愛を拒否した。「この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがはいった」(ヨハネ13:27)。これは悪魔の二重攻撃となった。過越しの食事の前と後にユダは完全に魂を悪魔に売り渡してしまったのである。 その後、ゲツセマネの祈りを経て、ついに敵どもはユダの冷たい接吻を合図にイエスを捕縛し十字架刑に引きずり込むのである。 ところが、金曜日の朝、ユダに変化が見られた。「イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、『わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました』」(マタイ27:3,4)と。 これはユダの後悔である。後悔するくらいならば、なぜ裏切ったのか、と言いたいところだが、それが人の原罪というものであろう。「後悔先に立たず」とはこのことである。 残念なことは、後悔では赦されないということだ、後悔は死に至り、悔い改めは命に至る。前者はユダであり後者はペテロである。「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔い改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」(第二コリント7:10)。ユダのように主を裏切って神に背いたとしても悔い改めるならば赦される。主イエスの贖いととりなしの祈りのゆえに、私たちは憐れみを受けることができる。 私たちは、どういう罪や過ちや失敗があったとしても、遜って神の御許に帰るべきである。今日、聖餐式はそのような場である。 「イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『取れ、これはわたしのからだである』。また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。イエスはまた言われた、『これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である』(14:22-24節)とある。 「多くの人のために流す」とは、どういうことであろう。イエスの御宝血はすべての人々のために流されたのではない。己の罪や過ち、失敗に泣き心千々に砕けながら、なお悔い改めをもって、主の御前にひれ伏し、十字架の救いと贖いを信じる人々のために主の御血潮は流された。すなわち、真の意味で神の御許に帰る人々のために御血潮は注がれたのである。私たちも常に主の御許に帰るものでなければならない。 |
題「神の御許に帰る」マルコ14:22-26
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