題「報いを望まず」マタイ19:23-30

 マタイ19:16-22の箇所に、富める青年の出来事が記されている。

 「すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った。『先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか』。イエスは言われた、『なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめをまもりなさい』。彼は言った、『どのいましめですか』。イエスは言われた、『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え。また、自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』。この青年はイエスに言った、『それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう』。イエスは彼に言われた、『もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従っていなさい』。この言葉を聞いて、青年は、悲しみながら立ち去った。たくさん資産を持っていたからである」。

 彼は豊かで役人であった(ルカ18:18)。道徳的にも真面目で宗教的にも熱心であった。ある意味で非の打ち所がない全く申し分のない人物であった。若さ、地位、富、誠実さをすべて兼ね備えていた。彼はこれらのものを何一つ失うことなく、その上になお良きものを手に入れたかったのである。ある日、主イエスの元に来て、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」(16節)と問うた。

 青年にとって永遠の生命は、これまで彼が得てきたものに一つ加えられるものであった。他の一切を失っても得たいものではなかった。青年にとっては、その程度の永遠の生命なのである。結局、神に対する信仰も同じなのだ。この男を通して、「信じているようで、本当は信じていない人」の姿を見る。ここで、主は、「命に入りたいと思うなら、いましめを守れ」(17節)と言われるのだが、神の律法を罪深い人間が全部完全に守れるはずがない。できない自分に気づくだけである。

 主は、彼に認罪させるために試されたのである。しかし、彼は神の戒めはみな守ってきた、と言う。何という偉大な思い違い。それに加えて、「ほかに何が足りないのでしょう」と、とんちんかんなことも語っている。主はそれに対して、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」(21節)と迫られた。

 それは青年に自らの罪深さと無力さを悟らせるためであった。ところが、彼は、この言葉を聞いて、悲しみながら立ち去ってしまった。たくさんの資産を持っていてそれを手放すことができなかったからである。

 23節以下の主の言葉によって、弟子たちは富める者が神の国に入ることの難しさを痛感させられる。「それからイエスは弟子たちに言われた、『よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴(エルサレムの城壁にあった〖針の門〗と呼ばれる門のこと。一人の人がやっと通れる小さな門のこと)を通る方が、もっとやさしい』。弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、『では、だれが救われることができるだろう』」(23-25節)。

 しかし、主は言われた。「人にはそれはできないが、神には何でもできない事はない」(26節)と。ここで、救いは人の業ではなく神の御業であることをお示しになられたのである。この後、シモン・ペテロの反応がおもしろい。大見得を切って、得意そうに、「ごらんなさい。わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」(27節)と言った。

 ペテロに親近感を持つ人は多い。嫌いな人は少ないのではないだろうか。彼には、性格的に快活で明るく順応的で要領がよく対応のうまさがある。人をひっぱっていく情熱を持ち、人々も引き込まれやすい。これは彼の特徴である。

 しかし、ここではいただけない。さも得意そうに、商売でもしているような、交換的に「報いを望む」卑劣な心が表れている。嫌らしいペテロの顔が見えてきそうだ。

 勿論、彼らのように全く主に献身していろいろなものを捨てて従う者には、何倍も祝福を受け、永遠の生命を受け、未来においては、大いなる栄光ある地位に座することも許されるだろう(28,29節)。

 しかし、自分の献身や犠牲を得意がるようであってはならない。主は、ペテロに「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」(30節)と釘をさした。27節との関わりで読んでいくと、彼は、本当は「捨てた、捨てた」と言うが、「捨てた」ことを「捨てて」いなかった。ピリピ3:13には、使徒パウロが地上の信仰生涯において「後ろのものを忘れ」と言っている。ペテロは、この生き方とは全く逆であった。27節で、彼は捨てた自分を誇っている。捨てた自分を自慢しているのだ。「わたしは、犠牲を払った、献身した、奉仕した、という自負する「自我」こそがくせ者であった訳である。化けの皮が剝がされた瞬間であった。

 それゆえに、ここで教えられることは、主の僕にふさわしい魂とは、「わたしは先の者だ、わたしは偉い」という自負心が砕かれて、へりくだって「わたしは後の者」になることをよしとすることなのである。このように、主の証し人として「報いを望まず」に生きた人たちは何人もいた。

 例えば、英国とインドの奴隷制度廃止のために尽力したクリスチャン国会議員、ウィリアム・ウィルバー・フォースとトマス・フォーエル・バックストン。彼らは、己の地位名誉のためではない、命を賭けて、時と財を捧げて、長きに亘り、黒人奴隷の人たちの解放のために信念を貫き労したのである。「報いを望まず」である。

 主イエスは言われた。「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ25:40)と。 もし、誰からもほめられず、評価されることがなくてもである。

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