題「走りよる主」マタイ8:1-3

 マタイによる福音書の5章から7章まで続いた山上の説教は、言葉の教えであったが、8章、9章は、その教えに生きた躍動する神の愛が主によって示されている。

 素晴らしい教えを受けた群衆は、神の国の充足感に浸っていた。そんなのどかな夕方、山から降りていかれた主イエスに人々はついて行った。

 その時、一人のツァラアト(規定の病・重い皮膚病・らい病)に冒された人が、主のみもとに来てひれ伏した。2節の「すると、そのとき」と訳されている言葉は、原文では、「すると見よ!」という強い意味がある。「その時、見よ、ツァラアトの病人だ!」、それは、驚きの叫びである。(※ 現代のような差別問題・人権問題から批判的に読まないようにしたい)

 幸せ気分のおびただしい群衆の中に、突然人々に恐れられていた病人が飛び込んできたのだ。一瞬、人々の内に恐怖の戦慄が走る。その恐ろしさがどのようなものであったのか、その時代の律法を見ると明らかである。

 ツァラアトの人は、町の中に入ることが許されていなかった。彼らは、普通に人々と一緒に共同生活ができず、隔離されなければならなかった。もし町に入るようなことがあるならば、彼らはその衣を裂き、その頭を現わし「汚れた者、汚れた者」と声の限り叫ばなければならなかった。

 今日的な言葉にするならば「私は生ける屍だ」ということである。どんな事情があっても、ツァラアトの人は、人々から2メートル離れなければならない。風上に立つならば、50メートルの距離を保たねばならない。風下に立つ人々に感染する恐れがあるから規定されていたのだ。

 彼らは、病のゆえに愛する者たちから引き裂かれて、社会的に葬られ、宗教的に抹殺され、そして、実存的に望みを失って、まさに生ける屍として「死の谷」という地獄のような場所に身を置いていたのである。映画「ベン・ハー」(チャールトン・ヘストン主演)にもこの死の谷が出てくるので参考にしていただきたい。そこには、生きておりながら死体となった人々がいる。それほどに、当時のツァラアト患者は、呪わしいものであった。

そのような一人の男がイエスさまと群衆の前に現れたのである。

 群衆は、男の出現によってくもの子を散らすように逃げて行ったことだろう。しかし、男は周りの人々がどのような反応を示そうが、このイエスさま以外に自分を救ってくださるお方はいないと信じていた。

 彼は、ひれ伏して間髪を入れず叫んだ。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります」(新改訳)と。これは、祈りではなく信仰告白である。「ああしてください。こうしてください」といった懇願ではない。

 それらのことをとおり越して、一人の人間が究極まで追いつめられて叫んだ言葉なのである。それは、「あなたにはできます」であった。ある訳では、「私がきよくなることはあなたの御心です」とある。これは信仰の告白である。これは、男のそれまでの絶望と苦悩をよく表しているのではないだろうか。それと同時に礼拝の本質を示していると思う。

 主は、その男の信仰に応えて、主は手を伸ばして彼に触られた。「そうしてあげよう、きよくなれ」(3節)と言われたのである。その2メートルの距離を、50メートルの距離をイエスさまは、すぐに走りよって埋められた。そして、男にタッチされたのである。律法にどんなことが規定されていても、そんなことは問題ではない。イエスさまの目には、そこにひれ伏して礼拝しているご自身に迫ってくる男以外に何も入っていなかった。米国のゴスペルシンガー、アーチー・デニスの「He Touched Me」(主の御手にふれて)のメロディが心に響く。

 これは、たいへんなことである。イエスさまは律法を犯されたのであろうか。モーセの戒めを破られたのであろうか。律法によれば、ツァラアトの患者には、声もかけてはいけない。挨拶もしてもならない。患者に触れることなど絶対に禁じられていることであった。主は先のところでこう言われている。「わたしは律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」(マタイ5:17)とある。イエスさまは、ここで律法を拒否され、律法を退け、律法を否定されたのではない。

 実は、主はその律法の上をいかられた。律法の字面ではなく、律法の心、律法の精神をいかれたのである。主は、この男を見られた時、イエスさまの御思いはどうであったのだろうか。おそらく、周りの人々は、この男を忌み嫌い、恐れて、ざわざわしながら離れて行ったことだろう。しかし、主は、我と我が身を忘れて、内臓を震わせるような、実存の深い所を揺さぶられるようにして、彼を憐れみ走りよられたのである。いつの間にか、気がつくと近寄って男に手を置かれたのだ。

 マルコ1章40,41節のところで、「ひとりのツァラアトの人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った。『みこころでしたら、きよめていただけるのですが』。イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『そうしてあげよう、きよくなれ』と言われた」とある。これは、マタイ伝の同じ出来事の並行記事である。ここでは、「イエスは深くあわれみ」という言葉がある。「深く憐れむ」というのは、どの程度であろうか。それは、内臓を指す言葉である。「五臓六腑」を指す言葉なのだ。肺、心臓、肝臓、腎臓、脾臓の五臓と大腸、小腸、胃、胆のう、膀胱など、すべてを指している。つまり、主がこの男をごらんなった時、イエスさまのはらわたが、内臓すべてが、深い愛によって、内側から震えた。内側から震えて燃えて躍動した。イエスさまの憐れみと愛が、主を突き動かして男のもとへ走らせのである。そして、主の御手は律法を超越して彼に置かれたのである。このイエスさまの行動が、「主の深いあわれみ」なのである。何と素晴らしい出来事であろうか。

 そして、男のツァラアトは、直ちにきよめられた。男の心からの信仰告白は受け入れられ、主によって癒され救われ神を見る者として、新しく立ち上がることができたのだ。ここに走りよる主の御姿を拝することができる。今日、救いときよめをと求めて悩み苦しんでいる人はおられるであろうか。肉体の病だけではない、内面において、精神において、魂において、罪性に長らく苦悩し痛んでおられる人はないだろうか。そのような人々は、今朝こそ、主イエス・キリストの御元に行こう。そして、ひれ伏してこう言おうではないか。「私がきよくなることはあなたの御心です」と。

 主は、その時、へりくだる者に走りよって近づき御手を置いてくださる。また同時に、愛と真実の神イエス・キリストは「そうしてあげよう、きよくなれ」と宣言してくださるであろう。私たちは、このお方を心から礼拝しようではないか。

 ハレルヤ!!

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