| 箴言9章では、知恵が「しとやかな女性」として擬人化されている。1節から18節に記されている絵画的な表現はとても印象的である。 1節から6節までの知恵は人を「生かすいのち」に招いている。13節から18節では、愚かな女が「死と滅び」に招いている。「知恵はいのちである」、「愚かなることは死をもたらす」という対照である。 その二つの招きの「饗宴」の中間にある7節から12節では、真逆の二つの道を歩む格言になっている。この章の特徴は、8章で知恵が人々に説教しているのに対して、ここでは知恵が「いのちの饗宴」に招いていることだ。 この比喩はユダヤ的であり、主がマタイによる福音書22章2節から14節において、御国への招きの譬え話で王が王子の婚宴に人々を招待する様子が語られているが、おそらくこの箴言9章がその背景にあるのだろう。 さて、今回は1節の御言にしぼって見ていきたい。「知恵は自分の家を建てる」とある。新改訳、共同訳も同じような表現になっている。LB訳では、「知恵はりっぱな宮殿を建て」とある。原文では、「知恵のある女は自分の家を建てる」とある。 知恵ある女が、天の御国の饗宴のために立派な宮殿を建てて人々を招いている姿がここにあるのだと思う。まさに大絵画としての手法である。 ある人は、この言葉を注釈して「知恵のある女とは、聖くて役に立つ女という意味である」と語っている。時代のバックグラウンドからして非常に不思議な言葉である。一般的に世界の歴史は、男尊女卑、女性差別、女性蔑視が長く続いてきた。現在、西側諸国においては、だいぶん改革、改善されてきたものの、ある国々において、多くの女性たちが、今なお特定の宗教思想、政治理念の元、個人の人権や尊厳が認められるどころか、男社会の横暴により虐待を受けひどい目に遭わされている。 そして、聖書の文化背景も女性にとっては、決して生き易いものはなかったと思われる。増してここに記されているようにその存在と働きが尊重され賞賛されることは珍しいことであったのではないかと思う。 最近放送が終わった朝ドラ「虎に翼」は、女性の存在と働きの社会的地位向上がテーマで描かれていたように思うが、確かに今は世間では、女性の地位が高くかつ社会的にとても立派な働きをしておられる方々が少なくない。かつて日本の封建的な時代と比べると随分と進歩したものだ。 今日は、「フェミニズム」女性解放思想や運動が当たり前のように叫ばれている 。確かにリベラルなイデオロギーが多くの女性たちを自由にしてきたことはあるのだと思う。それは、ある意味でこの社会にとって喜ばしいことであるのかもしれない。ところが、社会において女性が地位と名誉を手に入れて様々な仕事はできるようになってはいるのだが、一方で優れた人材であるはずの女性の個人生活や家庭生活に問題があり大きなトラブルを生み出していることを耳にする。具体的に道徳倫理上の事由で、大切なはずの家庭が無惨にも崩壊してしまうのである。これは男女を問わずだ。ダブル不倫や独身女性が既婚者の平穏な家庭を破壊してしまうこともある。これでは、聖書のいう知恵のある女とは言えないだろう。自分の自由と幸せは貪欲なほどに探究するものの他人はどうなってもよいと考えているのだろうか。愚かな行為のゆえに誰かが痛み苦しみ悲しんでいるのである。 人間は、皆個性がある。気質、性格も皆違う。皆が全部ハンコで押したように同じような人間になる必要はないが、異なるものだらけの男と女が、幸いな家庭を形成していくためには、基本的に夫婦間が愛の絆で結ばれて平和であることだと思う。男も女も不倫、浮気、家庭内暴力、ネグレクト(子どの養育無視)などをしていたのでは、家庭が幸福になるはずがない。 今日は、「知恵のある女は、聖くて役に立つ家庭を築く」ことについて考えたい。聖書には魅力的な女性が登場する。それは完璧であることでも弱点や欠点がない女性ではない。一人をあげるならばアブラハムの息子イサクの妻リベカである。イサクとリベカの物語は、創世記24章から49章までに記されている。私たちは、彼女にしとやかな知恵の女を見ることができると思う。 1,内なる美の人(創世記24:16)。「その娘は非常に美しく、男を知らぬ処女であった」。メソポタミア文明においては、男女の化粧については古くから知られている。彼らの美的感覚がどのようなものであったのかはわからないが、化粧は女性だけではなかった。エジプト文化のそれと同じである。アイメイクなどは、薬効のある塗り物で眼病予防をしていたそうである。長年に亘り貴族から平民までがそのような化粧をしていたのかどうかは不明である。思えば、リベカの生活の場は宮殿ではなく天幕であった。化粧とは無縁ではなかっただろうか。ですからこの美は外見の美しさではなく内側の美であったと思われる。そして、彼女は異教世界のように倫理道徳なくやたらに婚前交渉をするような女ではなかった。メソポタミアの宗教は多神教であり、性的逸脱の祭祀がなされていた。身体的なものと社会的なものとの両方において、人間が考える一切の性行為は禁じられることはないとした。自由な性の表現は文明によってもたらされた恩寵と捉える。同性愛、娼婦、男娼、獣姦なんでもOK。そのような背景の中で女性が自分自身を守って生きていくことは容易ではなかったであろう。彼女はその点において徹底して己を保っていたのだと思う。世の風潮と常識に支配されず、誘導されず、自己確立して、聖き良心と純情によって、将来の伴侶を待ち望んでいたのであろう。 2,「らくだにも水を飲ませましょう」との愛と親切を惜しまない人(24:15-21)。一般論として西洋文化の人たちは、こちらが「HELP ME ! 助けてください」と言えば助けてくれるが、何かの意志表示を言葉として発信しなければ何にもしてくれない(個人によって例外はあるかも)と言われている。文化の違いで日本人のように「痒い所に手が届く」ことを求めてしまうと相手にがっかりすることがある。けれども、この場面では、イサクの嫁とりの老僕の道中のこと。彼は水を彼女に求めた時、乞われるままに水を与えたのみならず、率先してらくだ十頭にも水を飲ませた。水道がある訳ではない。地下深い井戸から何度も桶の水を引き上げてのことである。毎日新聞に連載されていた古谷三敏の漫画「ぐうたらママ」ならばこうはいかない。このリベカの愛と親切によって彼女の人と成りがわかる。 3,信仰の人(24:57-67)。アブラハムの老僕の使命はイサクの妻を探し求めることであったが、そのことを彼はリベカに伝えると、なんの躊躇することなく「行きます」と決断した。肉親の絆を絶って、故郷を後にして新たなる出発をすることは容易なことではない。自由恋愛が常識として考えられている現代ならば、何と無茶な結婚をするのだろう、と苦言を呈する人たちも出てくることだろう。しかし、日本においても昔親が決めた結婚相手と結婚式当日初めて会ったという話をよく聞いたことがある。先輩牧師にもそんな方がおられた。それでどうなったかというと、意外に?うまくいって二人の愛情が深められたいへん幸いな家庭をつくられた数多くのお話を伺ったことがある。却って自由恋愛により結婚した夫婦がすぐに別れてしまって、バツイチ、バツニ、バツサンまで繰り返す人たちもいると聞く。結婚っていったい何なのだろう、と思わされるところである。リベカとイサクの場合、神を信じる信仰によって結ばれた夫婦となった。「神合い結婚」。神が結び合わせてくださったのだから、生きていく上でいろいろな苦労や試練はあるかもしれないが、二人で祈って人生の山と谷を乗り越えていくことを何よりも大事にしたのだと思う。そして、そのようになった。 聖書の族長時代は、一夫多妻が一般的であった。しかしながら、リベカが心美人、愛と親切の人、信仰の人であったので、彼女は夫イサクの心をつかんだ。世の中に他の女がいないかのように、イサクはリベカだけを生涯愛し続けたのである。女性にとってこれほどの幸福はあるだろうか。リベカは実に幸せな人生を送った女性であったと思う。 さあ、社会の土台は家庭である。その家庭の土台は夫婦である。そして、その夫婦の土台は愛と赦しと信頼である。私たちは、信仰による知恵ある女によって幸せな家庭は建てられるものであることを教えられる。 |
題「役立つ人」箴言9:1
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