| 私たちの人生には、それぞれの四季があるのではないだろうか。ポール・トゥルニエ氏の「人生の四季」は有名であるが、春夏秋冬、それぞれの季節が人生にもあると言うのだ。同感である。 終末緩和医療に長年携わってこられたシスター、高木慶子氏の著書「ありがとうといって死のう」がある。その中で、高木さんは、「人生には四季があるので、秋になったら冬を迎える準備をしよう。誰にでも冬がやってくるので、冬のために備えなければならない」と言われている。そして、医療現場で体験されたところからの発言として、ある患者さんたちのことをごらんになられて、「この方々は、人生の冬に備えてこなかったのだなあ」と思われるのだそうだ。 「もしこの方々が、(夏や秋に来たりくる)冬のために備えていたならば、このような恥ずかしい人生の冬を迎えるはずはなかったのではないだろうか」と。 そこで、自分なりにこの厳しい問いかけに対して答えを見出したいと思う。一般論として多くの方々は、確かに若い時から人生の計画を立て、そのプランに従っていろいろと努力してその達成のために取り組んでいこうとする。 まさに夏は上昇期であり秋は充実期であろう。 うまくいく場合は達成感もありよい。しかし、そうでない場合は、挫折と失敗によって内面に深い傷を負うことになる。そこで自己防衛として自分の心の中で思いめぐらし帳尻を合わせるように、ある程度折り合いをつけて、「こんなもんでいいいか」と納得させることもあるかもしれない。どちらの場合も、夏と秋は一生懸命ではないだろうか。そうして冬に入っていくのである。 そして、高木さんが言われるように、多くの場合は冬の備えをすることなくそこに突入していくのである。 今日、召天者合同記念礼拝において、天国教会の方々のお写真を見ながら、召されたそれぞれの年齢は異なるが、お一人一人が、信仰をもって人生を全うされたことを思い返したい(幼くして亡くなった場合は、主の憐れみにより天に召されている)。 人生の春夏秋の季節に信仰をもって生きるということは、冬の老いゆく人生の歩みも主なる神が導いてくださることを信じる。 それは、信仰をもっていない方々との決定的な違いである。 聖書にこう記されている。「人は心に自分の道を考え計る。しかし、その歩みを導く者は主である」と。 新改訳「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる」。 共同訳「・・主がその一歩を確かなものとされる」。 これは、死にゆく老いを生きる人間にとっても大いに力強いメッセージではないだろうか。人がどんなに自分の人生の道について計画し、「あぁしよう、こぅしよう」と思い巡らしても、結局そこにおいて人が歩んで行くただ一つの道は、主の良しと認められる道以外にない。「確かにされる」とは、主がその道を備えておられ、その道こそが最善の道であるということである。 これは運命論的な意味ではない。神がすべてのことを決めてしまうということではなく、人の選択と決断がたとい間違っていたとしても、またそのことによって、どんなに厳しい事がその人の人生に起ころうとも、神の愛と真実が働いて、神の慰め励まし支えを与えられて生き抜くことができることを示している。その意味において最善なのである。 冬の季節に響く神の言で第二コリント4章16節-18節がある。 「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」と。 ここで二つのことが教えられる。 ①老いの現実を受け容れること。老いの現実には、身体的、精神的老化がある。人は、老化現象によって弱り、衰え、意欲を失わせる。しかし、パウロは、やせ我慢でもなく、気負うこともなく、静かに受けとめている。彼は打ち負かされることはない。 ア、予備力の減少。無理ができなくなる。40歳代、50歳代、無理をして徹夜しても、その後休むとその疲れはすぐにと けていたが、60歳を越えるとその疲れがとれにくくなる。ある年齢になると潜在的な予備の減少がみられる。 イ、防衛反応の低下。若い時は、食べ過ぎても飲み過ぎても、時が経つと自然に元に戻る、しかし、老いるとむちゃを するとその反応が弱くなる。病原菌などのようなものに対する免疫反応が弱くなって抵抗力が弱くなる。 ウ、回復力が低下する。なかなか疲れがとれない。病気になったりする。 エ、適応力の減退。環境の変化などに、自分を適応させる力が弱くなる。転居とか新しい人間関係にくろう苦労する。 ②信仰によって老いの現実を喜ぶこと。「外なる人は滅びても」とは、衰弱し消耗することである。常識に考えてこれらは決して喜べるものではない。阪田寛夫氏の「土の器」という本の中に母京子さんのガンで召されるまでのことを特に臨終が近い頃のことを記している。感動したことを忘れることができない。京子さんは、この御言の信仰に生きた。 こう書かれていた。「状態が悪くなり、痛みの度合いがひどくなってから、母の笑いが花のように深く静かになった。痛みのない時、掛布団なしでごろんと横向いて誰かの手につかまっている母は、天から飛んできて、疲れて昼寝している天使の子のように見えることがあった。どうかした拍子に目が合って笑い返されると、それだけでもう何もいらないという気持ちになった。この『いい顔』は、身体の芯からにじみ出ていると思った」と。 この方は、生涯をキリストにささげて、奉仕し、他者を愛し続けて、多くの人々からも尊ばれ、愛された一人の主の僕でした。彼女は、その生涯をかけて、内側の老いを忘れ、疲れを知らない者として最後まで生きていかれたお方であった。 私たちも神を信じる信仰によって、この世が与えることができない不思議な体験をしようではないか。それは、「歩みを導く主」を信じ、委ね、任せる人生なのである。それは、多くの人々が求めておられることであり、安全で安心な人生の四季、春夏秋冬の幸せな生き方なのである。そして、その向こう側に天国が待っているのである。 |
題「歩みを導く主」箴言16:9
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