| 今日は、本当の友について考えてみたい。「人生より友情を除かば、世界より太陽を除くにひとし」(ローマの政治家 キケロ)。「友情は喜びを二倍にし、悲しみを半分にする」(ドイツの詩人 シラー)。「私は世界に二つの宝を持っている。私の友と私の魂と」(フランスの作家 ロマン・ロラン)と。 私たち人間にとって如何に友だちが大切であるのかを先人たちも述べている。 では、聖書は何と言っているのであろうか。 「世には友らしい見せかけの友がある。しかし兄弟よりも頼もしい友もある」とある。新改訳「滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる」。共同訳「友の振りをする者もあり、兄弟よりも親愛の情を抱く人もいる」と教えている。 友だちならばどのような人でもよいという訳にはいかない。世知辛い世の中、ずる賢い悪意のある羊の皮をかぶった狼たちが迫ってくることがある。言葉巧みに近づいてきて、友人関係ができるや否や、その人たちの隠された企てのために利用されたり、お金や物品、さらには財産まで奪われてしまうこともある。加えて一般人を犯罪に巻き込み普通の人を社会的に葬ろうとする連中もいる。「生き馬の目を抜く」とはこのことであろう。 よくよく友を選ぶことに注意しなければならない。 そこで、見せかけの友ではなく、実の兄弟よりも頼りになる本当の親友の例として美しい実話を紹介したい。 山梨県立美術館にフランスの19世紀の画家フランソワ・ミレーの作品が70点収蔵されているそうだ。「種まく人」「落穂拾い」などを見ることができる。 ミレーは、1855年に「接ぎ木をする男」を描いた頃はまだその頃無名であった。アトリエのストーブに燃やす薪もなければ、彼も妻子も、飢えと寒さで震えていた。そんなある日、友人である画家アンリ・ルソーがミレーの家を訪ねて来たのだ。 彼はすでに画家として多くの人々に知られるようになっていた。 ルソーは、貧しいミレーの家に入りそこにかけてあったいくつかの作品の中で「接ぎ木をする男」に目をつけた。 「これは世界的な名画だ!実は、僕は知人で君の絵を欲しいという男がいてね。選択は僕に任されているので、この絵は本当に気に入った。これをゆずってくれないか」とミレーに話しかけた。 「あぁ、いいともよかったら持っていってくれ」と、ミレーは二つ返事で承諾した。「ところで、代金だがね、いくら入っているのか知らないが、この袋に入っているだけなんだ。僕に免じてこれだけでお願いできないかい」と言うと、ルソーの頼みを快く引き受けたミレーが、ルソーの帰った後、彼の受け取った封筒を開いてみると、中から何と500フラン(約70万円)が出てきたのだ。 ミレー一家は、突然の思わぬこの収入で久しぶりに大きな喜びに溢れたという。この慰め如何ばかりであったことか! ところが、それから数年後、ミレーがルソー宅を訪ねた時、居間の壁に何とあの「接ぎ木の男」の絵がかかっているではないか。彼はその時初めてルソーの友情を知ったのだ。 ルソーは、友の貧苦を見るに見かねて、かといって友に心苦しい思いをさせたくなかった。それで架空の人物に託して、ミレーの絵を買い取ったという訳である。何と心温もるお話であろうか(この絵は、残念ながら山梨では見ることができない。ミュンヘンの美術館にある)。 確かに、ミレーにとってルソーは兄弟より頼もしい真の友であったといえるだろう。世の中にはいろいろな友がいる。しかし、真の友とは、ミレーに対するルソーのように、逆境に身を置く時にこそ、助けとなり力になってくれる友である。その人を自分のために利用したり 、その人から何かを奪い盗ってしまうような人間ではない。 私たちにそのような真の友はいるだろうか。有名な讃美歌312番(新聖歌209)といえば、「慈しみ深き友なるイエス」である。「慈しみ深き 友なるイエスは 変わらぬ愛もて 導き給う 世の友われらを 捨て去る時も 祈りに応えて 労り給わん」(3節)とある。イエス・キリストこそ、友の中の友といえるお方である。 讃美歌の中に証されている主イエスを見よう。 1節、「罪の重荷を取り去ってくださる」。過去と現在の失敗と過ち。罪過の一つ一つを十字架の出来事より赦して内面の罪とその呵責を取り去られる。 2節、「悩み悲しみを慰めてくださる」。生きることのすべての負の感情を憐れんで受け取られる。どこにも持っていくことができないものを全部引き受けてくださるのである。 3節、「裏切ることのない愛と導きを与えて真実を貫かれる」。イエスさまこそいつまでも変わることのない約束の愛を守ってくださる。まさに当てになる信頼に値するお方ではないだろうか。 私たちもたった一度の大切な人生においてこのお方を我が友としようではないか。 |
題「真の親友」箴言18:24
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