「まほろば」とは、素晴らしい場所、住みやすい場所、理想郷のことであるが、今日のメッセージタイトルの「ちいろば」とは、その類の日本の古語なのだろうか。そうではない。ここでは、エルサレム入城のために主イエスを背中にお乗せした小さなろばのことを愛称として「ちいろば」と呼びたい。
いよいよ、イエスの最後のエルサレムへの旅も終着点を迎えようとしていた。まず、イエス一行が、過越の祭の6日前に、オリブ山南西のベテパデ、ベタニヤの付近に来た時、イエスは、二人の弟子たちにエルサレム入城に用いるために、村のある家から「だれも乗ったことのない子ろば」(2節)を連れて来るよう命じられた。用意ができた後、イエス一行は、マルタとマリヤのいる家に身を寄せしばしの休息をとった。その間、マリヤが高価なナルドの香油を主のために注いで、知らずして主の「葬りの備え」をした(ヨハネ12:7)。すなわち、エルサレムに入る前に「油注がれし者(キリスト・救い主)」としての準備が整えられたのだ。
あくる日の日曜日、イエスは、過越の祭に来ていた多くの群衆に迎えられ、預言の御言通りに十字架による全人類の罪からの救いと贖いの御業を成し遂げるために、子ろばに乗ってエルサレムにお入りになられたのである(ゼカリヤ9:9)。「あなたの王があなたのところに来る。彼は正しき者であって、勝利を得る者。へりくだって、ろばに乗って来る。雌ろばの子、子ろばに乗って」(共同訳)とある。
これまで、主はどんな時も公にご自分を隠しておられた。病人がいやされた時も(1:43,44)、変貌山での栄光が顕された時も(9:9)、それを語ることを禁じられた。群衆がイエスを王にしようと担ぎ出そうとするとさっと身を隠されたこともあった(ヨハネ6:15)。神の救いのご計画の時が満ちていない段階での無用な人々に起こるトラブルと混乱を避けたかったのである。
ところが、この日は違っていた。一見華々しい行進である。イエスはなぜこのような行動に出たのであろうか。結果的に人々がイエスを殺そうと決心したのは、この盛大な行進を見たその後のことであったことがわかる。
「祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群衆がみなその教に感動していたので、イエスを恐れていたからである」(18節)、「そこで、パリサイ人たちは互に言った、『何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか』」(ヨハネ12:19)。ここに至りユダヤ教の指導者たちは、イエスの民衆への影響力に困り果て、もはやどうすることもできない状況になってきた事を悟り、彼を葬り去ることしかできないと判断したのだ。
そのような敵どもの画策が企てられる中、実に、主イエスは粛々とご自身の十字架の道を辿って行かれるのである。そして、救いの行程として、主はどうしても王としてエルサレムに入城しなければならなかった。しかも、子ろばに乗って人々に迎えられなければならなかった。それらは、旧約聖書の預言の成就なのである。
ちいろばは、「高貴な平和の主」の象徴となった。当時、ろばは決して卑しい乗り物ではなかった。士師記にこう記されている。「彼の後ギレアデびとヤイルが起こって二十二年の間イスラエルをさばいた。彼に三十人の子があった。彼らは三十頭のろばに乗り、また三十の町をもっていた」(士師記10:3,4)、「彼の後にピラトンびとヒレルの子アブドンがイスラエルをさばいた。彼に四十人のむすこ及び三十人の孫があり、七十頭のろばに乗った。彼は八年の間イスラエルをさばいた」(同12:13,14)と。
このように、昔から政治的指導者や貴族が通常ろばに乗っていたのだ。王はしばしば敵対する国に対しては、威圧的に軍馬や戦車で相手を脅そうとしたが、平和の外交ではろばに乗って訪問することがあった。主はこの時、王として平和の主としてエルサレムに臨まれたのである。その御姿は、イエスご自身が真の王であることを公に宣言されたことを意味していた。しかし、ユダヤの人々は、イエスをローマ帝国の圧制から解放する政治的メシヤとして迎え、かつての栄光のダビデ王国の再建を願って歓迎したに過ぎなかった。
「すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、『ホサナ(ヘブル語でどうぞ救ってくださいの意。詩篇118:25)、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ、いと高き所に、ホサナ』(11:8-10)とある。
この群衆の反応を見るにあたり思わされる御言は、イザヤ55章8節、9節である。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると言われる。天が地より高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」とある。
結局、人々にはそのことがわからなかった。数日後、「ホサナ」(9,10節)と叫んだその口で、「十字架につけよ」(15:13)と叫び続けることになった。しかしながら、イエスは、弟子たちのことも含めて、人々の心を知り尽くされ、何が起ころうとも十字架の道を進んで行かれるお方なのである。主は、言われた。「しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かなければならない。(かつて)預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである(メシヤも同じである)」(ルカ13:33)と。主イエスの父なる神に対するご従順を覚えて心から誉め称えようではないか。「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:8)と、パウロも記している。
それにしても、このたいへんな神のご計画の実現のために、小さなろばの子が用いられたことは驚くべきことではないだろうか。イエスは、小さくて取るに足りない子ろばを必要とされたのである。そして、崇高な出来事のために実際に子ろばを用いられたのである。ここに特別なメッセージがある。 私たちは、自分自身を見る時、小さな存在と無力さに縮み上がってしまうかもしれない。けれども、そのようなちっぽけな器に対して、主は、「あなたを必要としている」と言われるのである。
「主がお入り用なのです」(11:3)。主の証しのため。伝道のため。教会の霊的建て上げのため、社会的貢献のため等々。
さあ、主に応答しようではないか。「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」(イザヤ6:8)と。
