| 世界のベストセラー聖書が証しする「神」は、古来から日本人が心に描いてきた神々とは異なっている。日本では、「八百万の神々」として神が認識されており、自然界も物や人間までも神と成り得るのである。ところが、聖書の神は、唯一の存在であり、すべての物と命の創造者として証しされており、宇宙と世界にある物質と生物、そして人間をお造りになられたお方であると教えている。そのような視点で、この世の神々とは区別して、教会の礼拝でのメッセージをお聞きいただきたいと願っている。 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」(27節)とイエスは言われた。その真意について学びたい。 背景には、まずイスラエルのユダヤ教という宗教があることを念頭に置いていただきたい。イスラエル人の宗教のことである。さあ、そこで先ほど読んでいただいたマルコによる福音書にユダヤ教の指導者たちが登場してくる。12章13節に出てきたユダヤのパリサイ派の人々と12節に登場するサドカイ派の人々は、あらゆる点で異なるところがあり正反対のグループであった(仏教の宗派のようなもの。浄土宗、浄土真宗、真言宗、天台宗、日蓮宗等々)。 パリサイ派は純宗教団体であり、政治的な野望はなく、儀式律法が実行されていればそれで満足していた。一方、サドカイ派は、むしろ政治団体に近く、ユダヤの神殿で働く祭司(宮で仕事をする神主のようなもの)や貴族(公家のようなもの)は、ほとんどこのグループに属していた。 当時のエルサレムの最高議会(サイヘドリン・国会のようなもの)の議員も大半サドカイ派によって占められていた。彼らは、この世の権力者に結びつく世俗主義者であり、時の流れに敏感な進歩主義者でもあった。いうならば、今風にリベラルな人々であったといえよう。サドカイ派の人々は、自分たちこそ時代の先端を行く進歩したものの考え方ができるエリート人間であると自負していた。 パリサイ派とサドカイ派は、同じユダヤ教でありながら聖書理解についても随分違う。パリサイ派は、聖書(現在の旧約聖書のこと)の他に、口伝律法(言い伝え)、儀式律法を問わず、無数の人間が作った規則細則を信じて受け入れていた。それらを一つ一つ欠けなく行っていれば、人間は身も心も清くなり義人(正しい人)となれると考えていたのである。 しかし、これに反対しサドカイ派は、聖書のモーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記、民数記・申命記)のみを信じ、明白な定め以外は何も権威を認めていなかった。それゆえに、死人の復活や霊や天使も存在しないと主張していた。日本でも小泉八雲(NHKあさドラ《ばけばけ》放送中)が世界に紹介した「怪談」話があるが、そこでは幽霊が当たり前のように出てくるが、サドカイ派の人々は、そのようなことはすべて排除していたのだ。 そのようなサドカイ派の人々は、その当時の熱心なパリサイ派の人々や一般民衆が信じていた人の死後の復活信仰(死後に甦るという信仰のこと)をバカにしその愚劣さを暴露させようとしていたのだ。彼らは、聖書の申命記25章5-10節に記されている「逆縁結婚」(昔日本でも全国的に行われていた)の律法を持ち出して、復活信仰が如何に愚かで無意味なものであるのかを指摘しようとした。 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。ここに七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、次男がその妻をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。こうして、七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女も死にました。復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょう。七人とも彼女を妻にしたのですが」(19-23節)と。 サドカイ人は自信ありげにイエスに質問した。これは、死後の世界の復活信仰に対する挑戦でもあった。しかし、イエスが言われる復活信仰と、ユダヤ教一般のそれとは全く違っていた。ユダヤ教の人々は、たとえばこの記事の問題であるならば、女の前に死んだ七人の夫が現れみなが妻としての女の所有権を主張して奪い合いをするといった類のものにしかすぎなかった。実に地上的な捉え方である。そういう死人をもう一度、現在の世に呼び戻してきたような世界のイメージしか当時のユダヤの人々には考えも及ばなかった。 よく日本人が、人間が前世、現世、来世の三世(さんぜ)にわたって死と再世(さいせい)を繰り返すことを「輪廻」(りんね)と呼んでいたが、日本人がこの仏教思想で考え頭に描いてきたこととユダヤ教とあまり大差はないようだ。つまり、もう一度やり直しのできる安易な人生くらいにしか考えていなかった。 そこで、主は、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼は天にいる御使のようなものである」(12:24,25)と言われた。さらに、ルカ20章36節では、つけ加えて「復活にあずかるゆえに、神の子であるので、もう死ぬことはあり得ないからである」とも言われている。 今日も死後の世界での復活などないという人々に対して主イエスは、三つのことをお示しになられる。 ①「あなたがたは思い違いをしている」(24節)。人は、いつも自分の理解できる範囲の中でしかものを考えることができないところがある。超自然なことについては、拒絶反応を示す。しかし、私たちは人生の大切な選択をする時に、軽々に判断してはならないと思う。この復活を否定することについても、『もしかしたら。私は大変な思い違いをしているのではないか』と、反省して慎み深く謙虚になることは有益であろうと思う。誤った態度が神が用意してくださっている素晴らしい祝福を失ってしまうことにもなりかねないのだ。私たちは、神の前にへりくだることが肝要であると思う。 ②「聖書も神の力も知らない」。思い違いは、どこからくるかというと、それは神の力を知らないところからくる。だから自分の常識の考えのパラダイム(枠組み)から飛び出して、知らない神の領域があることを認めて知ることである。聖書によると人間は、創造主によって造られ(肉体・精神・霊を持つ存在)、地上にあって生かされていく、そして与えれた人生を歩み心臓停止をもって死ぬ。死の瞬間、肉体と霊は分離する。しかし、神の子とされている者は、天国の待合所であるパラダイスに迎えられる。そして、新天新地(神の国・天国)の準備がなされるならば、神の子たちは、新たな栄光の復活の霊的な体が与えられる。これは、いくら頭の中で思いめぐらしてもひらめくようなものではない。丁度、子どもが、算数を初めて学び、1+1=2、と覚えるようにそのまま受けとめることが大切なのである。 このことを「復活の体」と呼ぶ。この体をもって神の国において永遠に生きるのである。このことを永遠の生命とも言われている。神の子は、天使のように結婚、出産、死亡もない。『人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』(黙示録21:4)とも記されている。これらのことは、あまりに神秘的なことで想像することも難しいが、事実であり真実なのである。 ③「人はみな神に生きるものだからである」(ルカ20:38)。主は、サドカイ派の聖書を知らない無知を指摘しながら、復活について証しされた。サドカイ派の人々が、先に権威あるモーセの律法を持ち出したので、主も同じように出エジプト記3章6節を引用して話された。神がモーセに語りかけた言葉である。「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と。 そのことをこのマルコの福音書では、「死人がよみがえることについては、モーセの柴の編で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」(12:26,27)と記されている。 ルカ20章37,38節では、「神は死人の神ではありえない。いにしえの聖徒たちは今もなお神との交わりに生きているのである」と権威ある者として語られるのである。私たちは、愛する者を天に送る時、大きな悲しみと心の痛みを経験する。それは、ある意味で当然なことであり人の性というものであろう。しかし、召天した者が、今この瞬間も神の御手にあって生きていることを忘れがちである。今、現在、召された者も神のご愛の御手において霊(地上での体はない意味)において生きて存在しているのである。 創造者である神にとってご支配される世界は、天上、地上、地下、すべての世界を含んでいる。私たちの神は生きている者の神である。これは、気休めでも何でもない。本当に生きる。本当に生きているのだ。そして、時がくると新しい霊的な復活の体が与えられる。今朝も、生きておられる復活の主は、「あなたはこれを信じるか」(ヨハネ11:26)と語っておられるのである。 |
題「生きている者の神」マルコ12:18-27
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