題「創造の目的」イザヤ43:7

 NHK朝ドラ「ばけばけ」の主題歌、「笑ったり転んだり」は、夫婦デュオ・ハンバートハンバートが歌っている。印象的な歌詞に、「毎日難儀なことばかり、泣き疲れ眠るだけ・・・日に日に世界が悪くなる」とある。全体的には癒しの歌になっているのだが、ここだけ聞くと厭世(えんせい)主義(ペシミズム)のようである。

 かつて、B・グラハム師は、「私たちの住んでいる世界は厭世主義に満ちている」と語っていた。日本でも、平安時代などの古い時代には、仏教的な思想からこの世を辛いところ「憂き世 うきよ」と言っていた。この世は思い通りにならない儚(はかな)い場所であるという捉え方で厭世的であった。ところが、江戸時代には、戦乱が収まり庶民が力を持ち「現代風、華やかな現世」という意味で「浮世」と言われるようになったそうだ。「どうせ儚い世の中なら浮かれて楽しく暮らそう」という享楽的な考えに変わっていったようである。

 幕末(慶応3年 1867年)、民衆の幕府への批判、政情不安、飢餓、米価高騰などが重なる中、起こったであろう大衆熱狂現象としての「ええじゃないか」運動もその一つかもしれない。しかし、いずれにしてもこの世が、虚しい「憂き世」であることに変わりはなかったのではないかと思う。

 では、聖書の神はそのような世界を創造されたのであろうか。神は愛と真実の造り主として、天地万物を創造された。すべての現象は神の御手によって表されている。そして、この世に世界を管理し治めるために人間が造られた。動機は愛である。このことに気づいて、人間がすべてのことを神に委ねて、神の御心に従って生きていくならば、すべての辛いことが喜びとなってくることを神の御言は教えている。「憂き世」は、「喜びの有る世」、「有喜世(うきよ)」となるのである。

 イザヤ書43章は、直接的にはイスラエルの民に語られているが、普遍的な意味があってすべての人々に語られている。創造主が人間を造られた目的が明確に示されている。

 「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ』(1節)とある。

 神は創造の神、罪を赦し贖う神、親が子を呼ぶように、夫が妻を呼ぶように、私たちの名を呼んで愛していることを告げておられる。「名を呼ぶ」とは、特に親しい間柄を示している。主なる神は造り主として、それゆえに私たちを愛する存在としてその所有を主張し表明されるのだ。「あなたはわたしのものだ」と。

 自己の存在証明(自分が何者であり、何のために生まれ、何のために生きているのか。その理由と証拠)が困難である今の時代、信頼できる自己存在証明書を創造主であるお方が出してくださるとは何と光栄なことであり特権であろうか。

 さて、諏訪基督伝道館の小林良雄師は、この真理に触れて、献身の信仰に至ったそうだ。マラキ書を読んで、神のものである自分自身を神にお返ししようと決心されたのである。献身とは、「返身」に外ならない。神のものであることを意識して、主権を神にお返しすることだ。私たちも神のものであるならば、神の栄えを顕す者ではないだろうか。

 「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(第一コリント6:20)とある。「わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを仕立てた」(43:7)、「わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った」(新改訳2017)の御言に重なる。

 日本の救世軍の初代士官(牧師)、山室軍平(1872年-1940年)の妻、山室機恵子(1874年-1916年)は、明治の社会事業家であった。貧しい家計のやりくりをし、七人の子どもを育てながら、不幸な婦人たちや病人たちを救うために奔走した。まさにそれは犠牲多き人生であった。その機恵子氏は、愛する者たちを残して43歳の若さで召された。

 妻の最後の病床にあって軍平氏が「これは犠牲の生涯だよ、私を今日あらしめるために、あなたはその犠牲になったのだよ」と。すると機恵子氏は答えて「私のような者にその犠牲の生涯を送らせてくださったのは、あなたのお導きです。ありがとうございます」と感謝の言葉で返したとそうである。彼女は、母親に向かっては「私はお金や地位を求める生涯を送らなかったことを最後まで満足に思っている」と言い、病床を訪れたを人々には「幸福はただ、十字架のそばにある」と言い残したといわれている。

 現実のこととして、多くの人々が言うように、この世は辛いことの多い、憂き世であろう。けれども、機恵子氏の犠牲のご生涯と「幸福はただ、十字架のそばにある」という言葉は、どんなに厳しい人生であったとしても、憂き世が「有喜世」になることを示していると思う。私たちも信仰をもって創造主の造られた目的のように生きていこうではないか。

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