1984年、7月3日(火)、英国ロンドン市・ウェストミンスターにある「ウェストミンスター寺院」(Westminster Abbey)に夫婦で訪れる機会を得た。イングランド国教会の教会である。古い建築物ではあるが、よくメンテナンスが行き届いており、崇高な雰囲気を醸し出している特別な礼拝堂である。ここでは戴冠式などの王室行事が執り行われることは知られているが、著名人が埋葬され記念碑もあちらこちらに設けられている。ウィリアム・ウィルバーフォースは、1833年8月3日、この場所に埋葬されている。さらに、1840年、偉大な国会議員の一人として記念碑が建てられている。それは、彼が英国と関係地域における奴隷制度廃止と解放のために文字どおり命を賭けて長年に亘り闘い続け、ついに勝利を勝ち取ったことを国家レベルで評価し国民の心に刻み付けるために設けられたものである。
2006年、英国で製作された映画「アメージング・グレース」が日本でも2011年に上映された。あまり宣伝されなかったので、そういう映画があることすら知らなかったが、数年前観ることが適った。監督のケッブリッジ大卒のマイケル・アプテッドがドキュメント作家でもあり、史実に基づいてリアルに描かれていた。はっきり言って感動し涙なくして最後まで観終わることができなかった。皆さんもぜひともご覧いただきたい。
さて、ジョン・ニュートンとの出会いにより、ウィリアムは、政治家として生きることを決意し、奴隷貿易の実態調査を始めた。しかし、それは実に厳しい現実を彼に突き付けることになった。英国は、17世紀から18世紀にかけて三角貿易で莫大な富を国家的に得てきた。それは、アフリカ大陸から黒人奴隷を拉致して米国の新大陸と西インド諸島に運びそこからヨーロッパに煙草や綿花、砂糖などを運んで儲け、自国の産業革命を推進する財源としたのである。
三角とは、①英国 ②アフリカ大陸 ③米国大陸と西インド諸島。のトライアングル商法とでもいえるものであろう。多くのイギリスの国民は、この貿易によってうまい汁を吸ってきた。一般的に奴隷貿易を肯定するか、全く良心の呵責もなく無関心であったようだ。ところが、18世紀の後半から奴隷貿易の非人道的な実態が知られるようになり、徐々に奴隷貿易を批判する人々が増えてきた。ウィリアムはその中に飛び込んできたのである。
奴隷貿易廃止協会が設立されるとウィリアムが参加し、ジョン・ニュートンが相談役となり、さらには、親友である若き宰相ウィリアム・ピットの協力を得て、政府に対する働きかけと議会活動を進めていこうとするのであるが、毎年のように、奴隷貿易禁止法案を提出するもののすべて否決されてしまう。少数派として多数派を占める議員を相手に長きに亘って闘う様々な苦労というものは筆舌に尽くしがたい。
ところが、苦労が報われるように、1807年、英国議会はウィルバーフォース提案の英国帝国すべての奴隷貿易廃止法が成立することになる。しかしながら、奴隷貿易は禁止されたが、奴隷制度そのものはなお温存されていた。1820年、ウィリアムは病気やそれに伴う活動の制限を経て、彼はなお全ての奴隷の最終的な解放を目指し活動を続けた。さて、そこでウィリアムはその活動のリーダーシップを継承するために一人の人物に依頼した。その人こそ、私たちの信仰のルーツである英国宣教師のバークレー・フォーエル・バックストン師の祖父、トマス・フォーエル・バックトン氏である。1823年、バックストンは、奴隷解放法案を提案した。その審議の中で、ウィリアムは最後のスピーチを行った。それは議員諸氏の心の琴線に触れる内容であったと言われている。
1824年、ウィリアムは重篤な病のゆえに次の年議員を辞職した。だが彼の内に燃える奴隷解放を目的とする情熱は消えず、病弱ながらあちこちに足を運んで自分の信じるところを人々に余すことなく述べ伝えた。1833年、彼の健康状態は低下しインフルエンザのゆえに回復の見込みがなかった。そのような中、7月26日、奴隷制廃止法案がようやく議会の第三読会まで通過したことを知って大変喜んだ。それは歓喜そのものであった。
なぜならば会議制の読会制度で第三読会まで議事が進行していることにおいて採決の際、否決されることがないことを信じていたのである。彼は自身が生涯において貫いて全うしたかったことが成就することを確信したのである。ウィリアムは、その翌々日、地上の使命を終えて安堵し天に帰った。そして、その一か月後、彼が確信していたように、英国議会において奴隷制度廃止法案は可決し成立したのである。「アメージング・グレース」の作者ジョン・ニュートンができなかったことをウィリアム・ウィリバーフォースが、多くの協力者を得て実現することができたのである。この事実は、イエス・キリストを信じる人々が信仰を持って生きた神の物語ではないだろうか。ハレルヤ!
