「17歳の残像ーある小説」

 北帰行とは、温暖な地域で越冬した渡り鳥が北の繁殖地に移動することだが、この冬も長野県にしばらく留まっていた白鳥が安曇野の地を飛び立ちシベリアへの北帰行を始めたようである。春を待つこのシーズンになるといつも思いだす小説がある。第61回芥川賞受賞作家、庄司薫(福田章二)氏の第二部作「白鳥の歌なんて聞こえない」である。1971年に刊行。1972年NKKのテレビドラマ(荒谷公之・仁科明子主演)と東宝映画(岡田裕介・本田みちこ主演)で映像化もされている。当時、17歳の高校生であった。この小説を購入し、映画とテレビドラマも全部観た。瞬く間に庄司薫の大ファンになってしまった。

 お話は、高校を卒業した主人公の薫と幼馴染の由美が、進路や恋愛に悩みながらも、一方で深い問題である死について真正面から向き合って苦悩しながら乗り越えていこうとする。勉強して何になるのか。人間は何のために生きるのかと問いながら、死と対峙することになる主人公が印象に残る青春小説である。タイトルにある「白鳥の歌」というのは、白鳥が死ぬ前に美しい声で鳴くという伝説のことである。

 さてもう少し詳しく紹介すると、モクレンの花が咲き始め、東大入試で、ボク(薫)は浪人する決意を固めた頃、ガールフレンドの由美は、めでたく有名女子大学に合格した。そこに由美の大学の先輩小沢圭子が登場する。彼女の祖父の書斎には、ぎっしり積まれた膨大な書物があり、その全部を祖父は読んだという。そんな人間が今人生の黄昏を迎え危篤状態にある。薫はその衰えゆく老いの現実に触れて人間の努力などは虚しさだけが残るのではないかと思う。由美は、そのお爺さんの死ゆく様子を前にして感傷的になって死の魅力に飲み込まれそうになってしまう。圭子も祖父の傍にいることがいたたまれなくて由美の家に逃れてしまう。三人は一個の人間に訪れようとしている死という得体の知れない力に思わず息をつめる。まるで白鳥の歌が聞こえるかのように。

 圭子は肉親であるがゆえに祖父の死にゆく様に負の大きな影響を受けてしまった。心千々に乱れ、不安、恐れ、落ち着くことができず、眠れないでいる。その圭子の姿に由美も死の魅力に諸に呑まれてしまう。薫はといえば、そんな由美を自分の若さと力の世界にひっしに連れ戻そうとするが、一緒にいるだけが精一杯である。その時、電話が鳴り響いた。圭子の祖父の死の知らせであった。由美が薫に圭子を邸まで送るよう促す。その途中、圭子が薫に静かに言った。「ごめんなさい。あなたたちまで捲き込んでしまって。でも私、本当に死ぬなんて思ってもいなかった」と。薫が圭子を送り届けた後、今来た道を引き返す。由美の部屋を見上げた薫は、涙が溢れそうになり「白鳥の歌なんて聞こえない」とはっきり想った。

 さて、春の到来の前に、あまり人気のない「死について」考えてみたい。この世にはいろいろな統計があるが、人間にとって死ほど100%の確率で誰にでも確実に訪れるものは他にない。しかし、現代人はあまりにも忙し過ぎて、自分が死ぬべきことも忘れているのではないかと思わされている。カトリックの修道所で用いられる日常的挨拶で「メメント・モリ」という言葉がある。それは「汝死ぬべき者であることを知れ」という意味である。挨拶を交わす相手に死の備えをすることを促す言葉であろう。これは私たちにとってとてもとても重要ではないかと思っている。

 未曽有の阪神淡路大震災、東日本大震災、能登半島地震、2年前の不条理なロシアのウクライナ侵攻、昨年の10月7日のイスラム過激テロ組織ハマスによる卑怯なイスラエル攻撃などによって、大勢の尊いかけがえのない生命が失われたのだが、亡くなられた方々、どなたもご自分が死ななければならないという必然を予め感じておられた人たちは誰もいなかったのではないか。だが突然、彼らはその命を取られたのである。人間はいつ死ぬかわからない。ある意味で将来を見据えて立てる人生設計などはあってないようなものかもしれない。

 一方で、死を常々意識することが人一倍多かった方がおられた。クリスチャン作家三浦綾子さんである(1922年-1999年)。生まれつき虚弱で、度々熱を出し、死神や山姥のようなものが出てくる夢をよく見て、幼い頃より死に対する恐怖に悩まされていたそうである。23歳の時から13年間も死病、不治の病といわれた肺結核と脊髄カリエスでベッドに釘付けの療養生活を送り、その間絶望と死の恐怖と闘った。その後も幾度も大病にかかり死と直面させられた。

 37歳の頃、4年間も彼女の回復を待ってくれたクリスチャンの三浦光世さんとご結婚。1992年には、パーキンソン病。原因不明の難病になられた。それでも夫のサポートを得て口述筆記で小説や随筆を書いていたが、1995年頃から、それもできなくなってしまった。その現実の中で、三浦さんは、「私には死ぬという仕事がある」と言い、死と穏やかに取り組んでいかれた。どんなに苦しく辛かったに違いないが、愚痴一つ口にすることなく、いらいらして周囲にあたりちらすことも一回もなく、実に祈りながら耐えられたのだ。彼女はご自分の死に様が神に用いられることを祈っておられたそうである。

 その祈りを常に共にいて支えられたのが夫光世さんであった。綾子さんは、いつも夫にすまないと言われたいへん感謝しておられた。夫あっての綾子さんであったのだ。末期となり心肺がとまり意識を失うことが二度、三度起きたが、その度に奇蹟的に回復したとのこと。医師たちはその綾子さんの生命力の強さに驚いてこう言われていたそうである。「こんな患者さんを見たことがない。綾子さんには何が起きるか予測できない」と。

 しかしながら、1999年10月12日、三浦綾子さんは、静かに息を引き取られた。キリスト信仰により死の力を打ち破り天の御国に凱旋されたのである。創造者である神により天に召されたのである。これは彼女にとって人生の勝利である。「白鳥の歌は聞こえない」が、天使たちの大讃美が響き渡ったことであろう。その葬儀には彼女の祈りが叶えられ神の栄えが顕された。それを機にキリストの救いを求める人も起こされた。また「あの人は亡くなられたが、多くの人の心の中に生きている」と言った人もいたそうだ。そして、三浦綾子さんは、ご自分で祈り続けられたように、「死ぬという大切な仕事」を神の助けにより立派に果たして召天されたのである。ここに人の「主にあって死ぬ死に方」が教えられているように思えてならない。

主の聖名を崇め誉め称えたい。ハレルヤ!!!

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