題「悲しみの道」ルカ23:26-31,マタイ16:24

 いよいよ受難週を迎えた。①日曜日 エルサレム入城。②月曜日 宮きよめ。③火曜日 神殿での論争と預言。④水曜日 ベタニヤでの一日とイスカリオテのユダの反逆。⑤木曜日 最後の晩餐とゲツセマネの祈りと捕縛。⑥金曜日 死刑の宣告と十字架刑と墓の葬り。

 この一週間、受難週のキリストと共に歩みたい。主は、不条理な裁判をピラトの官邸で受け死刑判決を受けた。 ローマの兵士たちに引き渡された後、「ヴィア・ドロローサ」(悲しみの道)を通って刑場のゴルゴタ(ヘブル語で【されこうべ】の意)に向かわれたのである。刑の執行はその日のうちに行われた。申命記21:23に「木にかけられた者は神に呪われた者」とあるように、死刑囚が木にかけられている間は、地も呪われると考えていた。従って安息日までには終えておきたかったのである。

 ローマの法律では、死刑宣告の後10日間執行が猶予される。よほどの極悪人でない限り死刑がすぐに執行されることはないが、主の場合は、ユダヤ人が一日でも早くイエスを処刑することを願ったのである。彼らはピラトを脅すことまで言っている。こうして、主はゴルゴタの丘に追い立てられるようにして引き連れられて行ったのだ。主は、約1.6キロの道を、自分の十字架を背負わされて歩かれた。他の二人の囚人も一緒であった。 ピラトという男は善人ぶってイエスを助けてやろうと一時期思ったと記されているが、結局は彼にとってはイエスも囚人もみな同じようなものであり大差ないと考えていたのである。

  ローマの十字架刑は、死刑囚に死刑の道具を本人に負わせ刑場まで運ばせる。何と徹底的にバカにしていることであろう。 それは、屈強の男を釘づけにするのだから、荒削りのかなり太い木で頑丈なものであったのであろう。三人は、ゴルゴタに着くと彼らが運んできた木にそれぞれ犬釘で両手両足に打ち貫かれる。そして、地下に約30センチほど埋め込み囚人は磔になったままで立てられる。両手両足に全体の体重がかかり囚人は八つ裂きにされる痛みが身体中に走る。 先週見たようにイエスは、鞭打ち刑によりすでに皮膚が破れ、肉がむき出しになっていたことだろう。その上にこの十字架がそれらの傷口に食い込むのだ。そして、頭には荊の冠をかぶせられ額は裂け真っ赤に血で染まっていたことだろう。

 最大の苦しみはこの十字架において父なる神から捨てられることであった。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と祈られた主は、詩編22:1のかつてタビデが語った預言が、今ここで成就したことを宣言したのである。 「昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ」(43節)とあるが、太陽の光が失われたこの間、実に父なる神は御子イエスを世の罪を取り除く神の小羊として見捨てられたのである。

 キリストはご自身だけが飲み干すことが許されている父から差し出された苦き杯を飲み干されたのである。 ヨハネ19:30で、救いは「完了した」と宣言し、ルカ23:46では、安堵して「父よ、わたしの霊をゆだねます」と言って息を引きとられたのである。そして、十字架刑に立ち合っていた百卒長は、一部始終を目撃して、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った(47節)。

 この事実が基となり、使徒信条にあるように、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と、神のご計画は引き続いて導かれていくのである。

 最期に、シモンというクレネ人に注目したい(26節)。「アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかり、人々はイエスの十字架を無理に負わせた」(マルコ15:21)とある。

 ①シモンはイエスと縁もゆかりもない者であったが、無理に十字架を負うことになった。私たちも欲しない十字架を負
  わされることがあるのではないだろうか。

 ②十字架は木であり本気で負うならば負えないものではない。母が人生での苦難の連続の最中、鴨島兄弟教会の伊藤榮
  一牧師の一言葉により励まされて、それらの問題を乗り越えて行ったことがある。それは、「イエスさまの十字架
  は、木でできており、人間が背負えないものではない。神さまは、私たちに背負えないものをお与えにはならない。
  祈りつつ取り組んでいきましょう。」と。この意味は、勿論、主イエスが救い主として負わなければならなかった十
  字架のことではない。人それぞれに与えられる個人的な十字架という重荷のことであろう。

 ③シモンは、恥も外聞も捨てて主に従った。彼は最初は、戸惑い困ったことであろう。しかし、腹を決めた。主イエス
  の御顔を仰ぎ、イエスに従うことを決めたのである。それが、彼の人生の祝福につなげたのである。

 ④主に従ったことにより家族が救われた。アレキサンデルとルボスとは、マルコがローマ教会に送った福音書に記され
  ている人名記録にあるのだ。彼らは、ローマ教会のクリスチャンとなっていた。ということは、シモンの従順が家族
  をイエス・キリストに導くことができたことを示しているのである。

 彼ほど十字架の意味がわかった男はいなかったと思う。私たちも、主の十字架との関係を明確にし祝福されるイエスさまと共なる人生を歩んでいこうではないか。祝福がありますように。

 「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、
  わたしに従ってきなさい」 マタイ16章24節
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