題「老いを豊かに」ゼカリヤ14:6,7

 敬老の日を迎えられた75歳以上の方々の上に、豊かな主の祝福をお祈りいたします。おめでとうございます。また、若い者たちも自らのこととして今日の礼拝を守りたいと思います。

  さて、神の人モーセは、120歳で亡くなった。申命記34章7節によると、彼は「目はかすまず、気力は衰えていなかった」と記されている。モーセは、召されるまで元気であったということだろうか。老いることを知らず、ただ元気印のお爺さんであったのだろうか。

 長野の佐久市には、「ぴんころ地蔵」がある。老若男女が「元気で長生きし(ぴんぴん)、寝込まず楽に大往生(ころり)したい」という願いに応じて設けられているようである。これにご利益があるかないかについては兎も角、私たち人間の思いと祈りとしては、やはりそうありたいと願っているのだろう。 しかし、現実はそうならないケースの方が多いのではないだろうか。

 確かに、私たちには老いの問題がある。人は決して年月の経過とともに若くはならない。テレビのコマーシャルも盛んに若く見せる方法について紹介しているが、実際は若返ることはあり得ないのだ。 そして、昨今、日本において認知症の広がりについてとても深刻である。日本の人口が1億2500万人として、2022年時点では約443万人。有病率は12.3%と、高齢者の約8人に1人の割合である。 軽度の認知障がいも加えると、何と患者数合計は、1,000万人を超え、高齢者の3~4人に1人の割合になる。 このように認知症は加齢が最大の要因であるとされているが、このようなお話は、私たちを憂鬱にさせるだけである。

  けれども、聖書は私たちに希望の言葉を語っている。その一つが今回の御言葉である。預言者ゼカリヤは、「夕暮になっても、光があるからである」と語っている。「夕暮れ時に光がある」(新改訳)、「夕暮れ時になっても、光がある」(共同訳)。これは、私たちの人生において暗い夕暮れに立っていたとしても、世の光であるイエス・キリストを信じる時、永遠の生命の希望の光を得ることができると言うのである。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12)。

 私たちクリスチャンにとって、この救いの事実は、認知症になっても変わることはないと信じている。 認知症のことを以前は、「痴呆」「ぼけ」などの言葉で呼ばれていた。有吉佐和子の「恍惚の人」というのもあった。これらの言葉には受け取り方により、屈辱的な意味合いがあるため、厚労省は、2004年から認知症という呼び方に変更した。ご本人やご家族のプライドを傷つけず、言葉のイメージから恥ずかしい病気だという誤った認識が持たれるのを防ぐことを目的とした。

 ところが、現実として認知症の症状が重くなるとご本人もご家族もその人が別人にようになってしまうことに恐怖すら感じることがある。愛する家族が他人のようになってしまうことに言いようのない悲しみと苦痛を感じてしまうのである。 神学校を卒業以来45年、多くの方々に質問されることの一つに、「私たちクリスチャンが、もし認知症になってしまって自分のことすらわからなくなったならば、キリストへの信仰も神の救いもみな失ってしまうのですか」というものである。

 あなたはどう思われるだろうか。 友よ、もし私たちが病によって自己認識さえすることができなくなったならば、神はその時点でそのような人間を救うことができなくなるのだろうか。答えは否である。

 認知症は脳の病気である。脳が病んだだけで健康な時に与えられた尊い信仰と救いを失うはずがない。使徒パウロは、人間を理解して第一テサロニケ人への手紙5章23節で、「あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って」と語っている。これらはバラバラに分解されるようなものではなく、一人の人格に共にある。神の救いと贖いは、神の命の息「霊」(創世記2:7)に対して起こる出来事である。そして、神は原罪のゆえに堕落しきっている「霊」を救われるのである。パウロは、「彼の霊が・・・救われるため」(第1コリント5:5)と、キリストの十字架の死と復活による救いと贖いは、人間の霊に起こることであることを証している。

 それゆえに、私たちにおいて肉体や精神(心)が病んだとしても、霊に与えられた救いと贖いが消失してしまうようなことはない。 今、大きな声で宣言したいことは、たとい認知症になったとしても霊は生きている。霊は主なる神と繋がっている。なおその人は、神の祝福のただ中におかれているのである。

「あなたの人生の夕暮になっても、光(イエス)は変わらずあなたの霊とともにある」。お互い、このことだけは、疑わないで保持し続けていただきたい。

 英国の有名な説教者、チャールズ・スポルジョン(1834年~1892年)が、デボーションの手引き書「朝ごとに夕ごとに」においてこう書いている。「私たちはしばしば不吉な予感をもって、老境を見、夕暮になっても光があることを忘れている。・・・・尊い経験の成果が、人生の夕暮に収穫せられ、魂(霊)は安息に入る備えをなす。さらに、主の民は臨終の時において光を楽しむ、不信者は、死の影が迫り、夜来たらんとし、人生の灯がまさに消えんとして嘆く。しかし、信仰者は叫ぶ、『否、夜が更けて、真の日が明けんとしているのだ』と。私たちは目をおおう、しかしながら、あなたは、私たちの見ることのできるものを見る。兄弟よ、あなたは私たちのいまだに見ざる夕の光を得ている」。ハレルヤ!!!
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