題「学ぶことあり」箴言6:6-8

 箴言には、神の戒め、人生の教訓、様々な格言が記されている。人生を生きていくための知恵の書である。

 箴言6:6-11までは、勤勉であることが教えられている。

 「なまけ者よ、ありのところに行き、そのするところ(その道 共同訳、そのやり方 新改訳)を見て、知恵を得よ。ありは、かしらなく、つかさなく、王もないが、夏のうちに食物をそなえ、刈入れの時に、かてを集める。なまけ者よ、いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む。それゆえに、貧しさは盗びとのようにあなたに来り、貧しさは、つわもののようにあなたに来る」とある。

 「なまけ者よ」(6節)と呼びかけるところから始まる。 「勤勉」と「なまけ者」というと思い出すのが、「アリとキリギリス」のお話であろう。

 ギリシャのイソップが作った動物寓話集「イソップ物語」は有名である。動物などの性格や行動に託して、ギリシャの一般大衆にどのようにしたら人は平穏無事に人生を送ることができるのかを教える処世訓である。

 ご存じのように、こんなお話である。「野原にアリとキリギリスが隣り合って住んでいた。アリたちは暑い夏の間、冬の用意でせっせと働いて穀物を一生懸命集めていた。ところが、キリギリスは、毎日毎日歌ばかり歌っていて、冬のことなど少しも考えていなかった。やがて霜が降りるようになると、アリも仕事に出なくなるし、キリギリスも歌を歌わなくなった。冬の季節である。 野原はすっかり雪に覆われて、食べ物はなにもない。

 アリたちが、夏に集めておいた小麦を蔵から出して乾かしていると、キリギリスがよろよろとやってきた。 『アリくん。おなかがすいて倒れそうだ。その小麦をぼくにも分けてくれよ』と。するとアリは言った。『あいにくだが、これはうちの家族が冬を越す、ぎりぎりの分なんだ。ぼくらが忙しくしていた夏の間、あなたは何をしていたんだ』と。

 キリギリスが、『ぼくだって、なまけていたわけではなく、せっせと歌を歌っていたんだ』と言うと、アリは、『なるほど。夏に歌っていたなら、冬は踊ったらどうかね』。そう言って、バタンとドアを閉めてしまった」と。

 実は、イソップの考えた最後のオチは、通常の子どもたちの童話として紹介されているものとは異なる。この後、キリギリスはひもじさと寒さで凍え死んでしまう。さらに続きがあって、死んだキリギリスをアリが家族みんなで食べるのである。本当は「恐ろしいお話」なのである。

 このイソップ物語は、もしかしたら自然科学的には問題があるようだが、紀元前6世紀にアイソーポス(イソップ)により作られたもので科学の書ではないので割り引いて読むべき本だ。「アリとキリギリス」のお話は、今日の箴言の言葉の例話のように思う。

 「なまけ者よ、ありのところに行き、そのするところを見て、知恵を得よ。ありは、かしらなく、つかさなく、王もないが、夏のうちに食物をそなえ、刈入れの時に、かてを集める」(6,7節)。アリは勤勉なものの代表に思える。本能にしてもアリがどんなに自らのために備えをするのか、実に働き者である。アリには、働くために誰かが命令したり、取り締まったり、監督したりする者はいない。真夏の厳しい暑さをいとわず、忙しく食物を集めて、冬の自分たちの必要に備えるため。注意深く運んでそれを蓄えるのである。

 このように人生にとって重要な知るべき事として「ありのところに行き、そのするところを見て、知恵を得よ」と命じている。勤勉が人間にとって優れた徳の一つであることを、聖書が示しているのである。

 人間は、神のかたちに似せて造られた。また全被造物を支配し管理するために造られている。そのように人間は、働く者として神によって基本的に造られていることを知る。

 「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたち(イメージ・ 知情意ある存在)に人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ、また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』。神はまた言われた、『わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える』。そのようになった」(創世記1:26-30)とある。

 実に 神は私たち人間を働く者として造られている。働くことは人間にとって本来的なことであり、働こうとしないことは、その人にとってなんらかの問題が潜んでいると言わなければならないだろう。しかし、これは、決して現代の事情があって働けないニートなどの人たちを裁いているのではない。彼らももし内面や社会的問題が取り除かれるならば健康的で普通に労し働くことができるようになることを信じている。

 ところで一般的に慣用句のように使われている言葉で、テレビドラマで時々出てくるせりふがある。「働かざる者食うべからず」は、聞いたことがあるだろう。 それは、どこから出てきたのであろうか。新約聖書の使徒パウロの書簡、第二テサロニケの手紙3:10-12の言葉に基づくものである。

 「あなたがたの所にいた時に、『働こうとしない者は、食べることもしてはならない』と命じておいた。ところが、聞くところによると、あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り、働かないで、ただいたずらに動きまわっているとのことである」とある。

 聖書は、文脈の中で読まなければならない。ここだけ切り取って、今日すべての人々に適用してしまうならば、パウロの警告と励ましの言葉が正しく伝わらなくなってしまう。ここでは、パウロは、信仰の脱線者の歩み方に対する警告と勧めの言葉を与えており、それは当時の急速なキリストの再臨待望の期待を日常生活の業を放棄する口実とした人々がいたのだ。そのような意味なき怠け者、怠惰な人々がいた訳である。

 「もうすぐキリストが再臨されるのだから、なんにもしないでそれを待っていよう。もう俺たちはなんにもしないでいいんだ」と世捨て人のようなことを口にする連中が教会に悪影響を与えていたのである。パウロは、そういう正しい信仰生活から落ちて行く人々を指導し矯正しようとしたのである。キリストの教会は、世の終わりが今日来ようが、再臨が明日起ころうが、日々の賢い生き方を変えてはならない。

 「たとえ明日、世界が終わるとしても、今日わたしはリンゴの木を植える」とは、宗教改革者、マルチン・ルターの言葉である。

 「リンゴの木を植える」とは、働くことである。日常をやめないことである。平常どおり精一杯生きることである。人がなまけて怠惰な人として働き労することがないならば、その人はいろいろな意味の貧困に陥る。人は愚かな者になってはならない。

 またこの箇所で学ぶことは、勤勉であることだけではなく、人間は、未来、将来についても備えなければならないということである。

 「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようなにならない前に」(伝道の書12:1)とあるが、これは老後生活の備えについての教えではない。確かに老後の準備も当然大事ではあるが、もっと大切なことは来世(神の国・天国・慰めの国)のための備えである。

 来世信仰は、漠然として「あの世」があると信じるものではない。それは、すべてのものの創造者、すべてのものの存在証明であり、すべてのものの最高の責任者であるキリストを救い主として信じる信仰が明確な者にとってのみ希望となる。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)。

 キリギリスのようにならないために確かな来世の希望を持とう。
目次