| 「顔で笑って心で泣く」ということわざがある。意味は、顔は笑っているが、心の中では悲しみでいっぱいで涙を流すことである。また、悲しみを表情に出さないで人に接することだ。本当の自分を隠して別の自分を演じることでもある。 フィクションのサスペンスドラマなどで、物語に出てくる外から見たら幸せそのものの家庭に、実は隠された真実があり、不和や悩みや悲しみが渦巻いておりそこから犯罪が起こってくるというようなお話がある。 しかし、実際は一般家庭においても外と内との違いは珍しい事ではないのでないかと思う。それによって世間では多くの人たちが心の休まるひまもなく秘かに苦しんでおられるのではないだろうか。 夫のギャンブルと酒乱とドメスティック・バイオレンス(DV)で身も心もボロボロになって涙の日々を子どものために忍び続けている主婦。親子関係の崩壊により麻薬や覚醒剤によって身を持ち崩す息子や娘。大学受験に何度も失敗して人生の目的を失い考えあぐんでいる青年。放任主義の親に育てられた子どもが、社会人としての自覚なく成長し借金まみれになり、やがて闇バイトに手をつけ逮捕されてしまった、というケイスもあろう。数限りない。 そこで今朝の御言は、「心の楽しみは良い薬である。たましいの憂いは骨を枯らす」(箴言17:22)である。 新改訳「喜んでいる(陽気な)心は健康を良くし、打ちひしがれた(陰気な)霊は骨を枯らす」。 共同訳「心が喜びを抱くと体は健やかに保ち、霊が沈み込むと骨まで枯れる」。 私たち人間の精神と身体は一体である。心が問題を持つともろに体にも影響が表れる。健康を害して、各種の病気が発病することもあり、原因のわからない病気になることもある。悪ければその人の命さえ危うくさせる。これは軽々に考えられない深刻な問題である。「病は気から」と言われるが、これは一笑に付すことができないだろう。 私たち人間は、希望を失うと生きていくことが難しくなる。しかし、反対に、心に希望と喜びと楽しみがあれば、どのような苦労にも立ち向かっていく力を得て、やがて打ち勝つこともできる。聖書は、天地万物の創造者であり人類の最高責任者、根源者であるお方が、苦しみ悩む人の孤独を癒し救ってくださることを示している。それは希望を持つことである。 聖書の登場人物でヤコブの息子ヨセフがいる。彼は患難の人であった(創世記37章~50章)。ヨセフは、父ヤコブの高齢の頃に生まれた息子で特別に愛されていた。溺愛に近いと思われる。それによって兄たちの妬みと憎しみを買って17歳のヨセフは外国の隊商に銀貨20枚で売り渡されてしまう。 その後、父母から引き裂かれてエジプトに連れられて役人ポテパルに奴隷として売られた。自分自身に置き替えて想像してみよう。 それがどんなに絶望的であったことか。普通に考えるならば「顔で泣いて心でも泣いて」である。 しかしながら、彼には信仰があった。神に祈りつつ生きる手立てを知っていた。聖書には、「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人ポテパルの家におった」(創世記39:2)とある。彼の人生において他にも繰り返しそのことが記されている。 「それがなんだ!」と言う人がいるかもしれないが、よくドラマなどのストーリー展開の中で、人生の厳しい状況に立たされている主人公の家族が、墓や仏壇に手を合わせて、「お父さん、お母さん、見守ってください」「お爺さん、お祖母さん、助けてください」「ご先祖さま、一緒にいてください」と祈願している姿を見ることがある。これは、一般的に日本人が死んだ人が守護霊のようになってなお地上に生きている家族親族になんらかの働きかけをして救うことができるという信仰から生まれているものだと思われる。 日常的には、科学の時代の現代人として無神論的生き方をしているのであるが、人生において困難な時、行き詰った時、悲しく辛い時、人間ではどうすることもできない問題解決のために死者に望みを 置こうとするものである。困った時の神・仏頼み?、に通じるものがあるのではないだろうか。 ということは、多くの場合、私たち人間というものは、孤独でひとりぼっちでいることに耐えられず、目に見えなくても誰かに一緒にいて欲しいという魂の欲求のようなものがあるのではないかと思う。 そういう迷信のような信仰は兎も角、ヨセフは、その苦難と逆境にあっても、主なる神が共におられることを信じた。不運と思われるどん底にあって信じた。それは、彼の自己存在の深いところからの生きるか死ぬかに関わる生き生きとした信仰であった。そして、その信仰は実際にヨセフの人生を変えた。彼は、生ける神を信じたのである。多くの人は幸運が訪れると主が共におられることを信じるが、それは信仰ではない。共におられる主を信じているので、幸運な人となるのである。 「幸運」とは、「達成」「繁栄」という意味であり、信仰のゆえに、苦難をも主の試練と信じて、どんな境遇にあっても、主が共におられることで、誠実に生き、努力もし、与えられた幻を描きながら歩んでいったのである。 ヨセフは、やがてエジプトの宰相となり、政治家として自国のみならず周辺の諸国民を飢餓から救う。また分かれていた家族、父ヤコブの親族を呼び寄せ救い、そればかりではなく、自分を奴隷として売り渡した兄たちの罪からも解放した。すなわち、主によって兄たちの許され難い罪を赦したのである。涙の和解の場面は感動的である。さらには、後の出エジプトの備えもしたのである。 ヨセフは、数奇な運命に弄ばれているような人生において、実は素晴らしい希望により喜び楽しみながら生きたのだ。私たちも頭の中の信仰ではなく、リアルに主なる神が私たちの人生と共におられて、「すべてのことを益と変えてくださる」ことを信じて歩もうではないか。 |
題「心の楽しみ」箴言17:22
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