| 松下電器の創業者といえば、松下幸之助である。経営の神様とも言われていたほどにとても優れた経営人であった。この松下氏が社員によく語っていたことの一つが、「素直な心」の大切さである。何をするにしても成功するためには素直な心は不可欠であると言われるのである。 今朝は、聖書の教える素直な心について学びたいと思う。 さて、「イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こうへ行かれた」(1節)とある。主の一行は、ガリラヤを離れ南への道をたどっておられた。最後の舞台に立つためにエルサレムへの最後の旅へと出発されたのである。イエスは、その途中でも集まってくる人々に教えることをやめなかった。 しかし、人々が主の回りに集まってくる時、反対者も必ず近寄ってきた。 「パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、『夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか』(2節)と。彼らは、律法学者の間でも意見が対立している離婚問題(パリサイ派の人々は、大きく二つに分かれていた。一つは、シャンマイ派で、不貞以外の理由で離婚はできないとし、もう一つはヒルレイ派で、料理の失敗一つで離婚できるとした。ここでイエスに質問するパリサイ派の人々の立場は後者の方である)を取り上げて、主を言葉のわなにかけようとしたのである。イエスは、そのような敵どもの思惑を見抜いて思慮深く答えられた。彼はすべての律法学者が認めているモーセの律法と創世記の言葉をお示しになられた(3-9節)。 「イエスは答えて言われた。『モーセはあなたがたになんと命じたか』。彼らは言った。『モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました』(人が妻をめとって、結婚したのちに、その女に恥ずべきことを見て、好まなくなったならば、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせなければならない。申命記24:1)。 【この女に恥ずべきことを見て】の解釈が、先のシャンマイ派とヒルレイ派によって異なる。前者は、姦淫と解釈する。これは夫が妻を取り換えるために妻に罠をかけて姦淫を犯させることもあった。後者は、夫から愛されなくなったら、と解釈した。夫が若くてきれいな女を妻にしたい場合、妻を嫌いになれば、自分の愛を失った《恥ずべき女と決めつけられた》。これは女にとって究極の不幸である) 。 そこでイエスは言われた、『モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである(モーセの律法は、離婚を是認しているわけではない。それは、人間の心がかたくななので、やむを得ず許可されたことなのだ。つまり、人間が原罪のゆえに神に反逆している心の状態のゆえに、神の命令された結婚の状態にとどまることができない場合、神が、そのような実質を伴わない不自然な結婚関係を解くことよって、当事者(妻)の苦痛を和らげることを許したに他ならない)。 しかし、天地創造の初めから、〖神は人を男と女に造られた。それゆえに、人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである。〗。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられものを、人は離してはならない』」 と。 さらに、マタイ5章31,32節でも、主が結婚と再婚について言及されている。 「また、『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである」と。 パリサイ人たちは、イエスが口にされる自分の言葉に躓き、モーセの律法と矛盾することを聞きたいと思っていた。 しかし、主は聖書には結婚した二人が離れてはならないと教えていると答えられた。これは、主のお答えであり、キリスト者のとるべき結婚観である。だが、この主のお言は、どういう文脈で語られているのであろうか。 2000年前のこの時代は、差別の時代であった。外国人、病人、汚れている者、前科のある者、取税人、娼婦を徹底的に軽蔑し排除した。そして、既婚の男どもによって女たちは人権も尊厳も守られることなく、三行半一枚で妻の座を追われ家から放り出されてしまった。何という時代であろうか。主は、当時の女性たちの悲しみと痛みを思いながら、憤りをもって男尊女卑の彼らに語っておられたのだ。 神が祝福される結婚は、神が合わせられたものである(6-9節)。「人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである」(7,8節)の御言は、これは、クリスチャンだけではなく、すべての人に対して適用されるものである。 ①結婚は、神の御心に従ってなされるもの(創世記24章のリベカとイサク)。アブラハムの長老の僕のイサクの嫁探しの出来事は麗しい。まさに神の御心とイサクとリベカの愛がぴったりとつなぎ合わされた一組の幸せな夫婦の誕生である。 ②結婚生活において二人は一体となること。 それは、助け合い、愛し合い、仕え合っていくことである。一つになることは、夫婦のお互いの忍耐と犠牲の賜物である。 こういう考え方は、当時のユダヤ社会の常識とは全く反しており、男と女を同等に扱っておられることに気づかされる(11,12節)。「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。男の勝手で妻を離縁すべきではないし、新たに再婚してはならない。 このような主イエスの御言の応答して、「死が二人を分かつまで」、神が結び合わされた夫婦として共に成長していきたいものである。これを今朝の祈りにしたい。 さて、主が家の中でこのような大人の話である結婚生活について教えられている時(家にはいってから、10節)、場違いと思われる所に母親たちが子どもたちをイエスに祝福してもらおうと入ってきた。おそらく、母親たちはニコニコしながら、我が子の人生幸多かれと願いながら主の御許に来たのだと思う。 ところが、そこで、弟子たちは大人の考えで彼らをたしなめた(13節)。すると主はそれを見て憤られた(14節)。これは、子どもたちがイエスの御元に近づくのを弟子たちが妨げているのをイエスが見て愛の憤りを表されたのである。確かに弟子たちは大人の事情があっただろう。しかし、それはイエスの御思いとは異なる。 「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決してできない」(14,15節)。 大人は、素直な心を失い易い。大人は自分は何もかもよく知っている。知識も経験も豊富である。海千山千したたかに生きてきたことを誇りに思うことさえある。けれども、それでは霊的な永遠の生命に関わる事柄においては、成功できない。つまり、この世で身につけてきたものは、神の国においては何の役にも立たたないからである。死ぬとき、全部置いていかなければならない。大切なことは素直な幼な心で永遠に関わる唯一のお方である救い主を信じ神に従うことである。大人の心で地上のことだけに心囚われて、縛られている状態から解き放たれて、目に見えない世界に望みを置いてイエス・キリストを信じることだ。救い主は、今日も招いておられる。 |
題「素直な心」マルコ10:1-16
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