題「御手に捧げる」マルコ10:17-34

 今朝の聖書箇所の三つの区分を確認しよう。 17-22「富める人」。23-31「主に従う者への祝福」。32-34「十字架の死と復活の三度目の預言」。

 主がエルサレムに向かう旅を再び進めようとされた時、一人の人が、イエスの御前に走り寄り跪いて尋ねた(マタイ19:16-30、ルカ18:18-30)。彼は、富める青年役人、ユダヤの宗教的教育を受けてきた道徳倫理的に立派な人であった。「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」と。すると、主は、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな、欺き取るな、父と母を敬え」(19節、出エジプト20:12-17)と、モーセの十戒の人に関わる部分をあげられた。青年は、間髪入れず、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」と答えた。自信満々である。

  ところが、それにも拘わらず、主はこう返された。「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」(21節)と。ぶっきらぼうに言われたのではない。「彼に目をとめ、いつくしんで言われた」とある。 富める青年は、永遠の生命を得るために、一生懸命子どもの頃から、律法に規定されている「やってはいけない事」に努力してきた。それは、ある意味で立派な態度であり生き方である。

 けれども、彼に欠けているところがあった。それは、「与える事」である。青年は、人に与えることはしていなかった。彼のネックになったのは富であったのだ。彼は主の言葉を聞いて、「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさん資産を持っていたからである」(22節)とある。

 ここで問題になっているのは、お金や財産を持っていることが悪いということではない。そうではなく、どれほど富に人の心が執着しているのか、支配されているのかということである。この世には、金銭に執着しないで自分でしっかりお金を管理し支配している人たちはおられる。お金に使われない人生である。逆に守銭奴のような人もいるのだろう、貧乏な人がお金の亡者である場合もあろう。

 ここでの主の教えと導きは、神よりも大切なものが自分の心を支配しているようなことはないか、ということである。 もし人が神よりも自分が持っている富の方が大事であると考えているならば、永遠の生命が欲しいなどと願うべきではない。永遠の生命は、神が恵みにより賦与されるものだからである。富める青年は、根本的に求める姿勢が間違っていた。

 イエスは、弟子たちを見まわして、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」(23節)、「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(25節)と言われた。それに対して弟子たちは、互いに言い合った。「それでは、だれが救われることができるのだろう」(26節)と。弟子たちは、お金や財産に囚われ易いこの世の現実をよく知っていた。この富める青年もその一人だったのだと納得したことだろう。

 結局、富める青年は、自分の資産の支配権を神に委ねることができないで、神に従うよりか金銭の所有欲に我が身を委ねる方を選んでしまった。そのことによって永遠の生命に至れなかったとするならば、こんな残念なことはない。

 他に道はなかったのだろうか。青年は、この段階においてまだ己の罪の認識はなかった。彼は、主と対座したことによって財産への執着心のゆえに神の前の罪に気づくことができたはずである。けれども、「お金と財産はどこまでも自分で好き勝手に使いたい。資産はすべて自分が支配すべきものである。それらを他の人に施すことなどできない」と、どこまでも自分の考えを変えようとはしなかった。ここに彼の傲慢な罪があった。

 その所有欲が罪であることを知るならば、彼は、「弱い私を憐れんでください。助けてください」と言うことができたのではないだろうか。悲しき哉、彼は認罪に至らず立ち去って行ったのだ。

 多くの人々は、皆自分がかわいい。お金や財産は自分の拠り所であり生活を保証してくれる当てになるものだ。これを手放してなるものか、と執着し易い。誰がそれを見ず知らずの人々に手渡すことなどできよう。 しかし、ペテロは、自分たちは違うと言いたかった。彼は弟子たちを代表して、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」(28節)と。ちょっと鼻に着く言い方である。本当に捨てた者の態度ではなかった。

 確かに、12弟子たちに多くの問題があったとしても、主と福音のためにすべてを捨てて従ってきたことは事実である。主は、それを喜び祝福なさる(29,30節)。けれども、主の弟子たる者は、与えられたものである家族や財産を粗末にしたり大事にしないのではない。 ここでの「捨てる者」とは、「自分の所有権を放棄した者」の意味がある。それは神に手放して捧げたことを意味している。

 つまり、神から与えられ託されたものは勝手に自分の幸せのためだけに自由に用いるのではなく、これらすべてを一度、主の御手に捧げることである。 それが我が子であっても、親がどんなに愛している存在であっても自分の好きなようにできるものではない。また、その我が子を偶像にしてもならない。

 さて、引用聖句として、創世記22章1-14節を読もう。神はアブラハムの信仰生涯における最大の試練を与えられた。だが、この試練は、彼の人生を根底から揺さぶり痛めるためのものではなかった。却って彼の心の深いところから生み出される良いものを導き出すためのテストであった。アブラハムの内側から、従順、信仰、献身を引き出すものであった。けれども、それは決して尋常ではなかった。言語を絶する親としての苦悩と痛みの葛藤が伴う極みであった、何とアブラハムの最愛の一人息子イサクを燔祭(神への完全な献身の供え物)として捧げることを求められたのである。米国映画「アブラハム」で演じる舞台俳優のリチャード・ハリスが父親として苦悶する様子をよく表現していたことを思い出す。

 主の僕とされる者に対して、親として良いと思われる子への愛情すら主に捧げることが必要なのである。「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクをささげなさい」(2節)とある。アブラハムは、どうしたのだろうか。信仰によって自我に死んでイサクと共に生き返ったのである。

 「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(27節)とは、アブラハムの信仰でもある。ヘブル11章17-19節にあるように、彼がよみがえりの力を信じたことを想起させる。

 そこにこう記されている。「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼(大いなる国民とし、祝福の基となる。創世記12:2)が、そのひとり子をささげたのである。この子については、『イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう』と言われていたのであった。彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである」。アブラハムは、イサクを神に手放してお任せしたことによって、彼を再び我が息子として抱きしめることができたのである。

 一切を主の御手に捧げることが、マルコ10章33節から34節にある十字架の道を進まれるイエスと弟子として同行することなのである。残念ながら、12弟子たちには、それができなかった。しかし、今は聖霊時代である。私たちは聖霊の導きと悟りによってキリストと共に十字架の道を辿っていきたいものである。アブラハムのように!!!
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