例年より一週間遅いが、今日の礼拝において敬老を覚え対象者の方々を祝福させていただきたいと思う。マルコ10章35節から45節までを読むと、弟子たちは、主イエスの教えにも拘わらず、依然として自分が偉くなりたいと競い合っていたことがわかる。先のカペナウムにおいて、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」(9:35)と言われたばかりである。
馬耳東風、馬の耳に念仏、糠に釘、暖簾に腕押し。人間というものは厄介な生き物である。聞く態度のない場合は、何度教えられても心には響いてこないものである。そこで、主は彼らを呼び寄せて、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない」(10:43,44)と教えられた。そして、ご自身のこの世に来られたご目的を明示された。「人の子のきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(10:45)と。
その後に記されている出来事は、人に仕えるために来られたイエスのことを象徴的に表わしていると思われる。その頃、主のエルサレムへの最後の旅は終わりが近づいていた。彼らは、エリコに来た。エリコからエルサレムは、24キロほど離れていた。人々は過越しの祭に向かっていて、エリコの通りでも群衆でごった返していたことだろう。人々がイエスに従いエリコを出ようとしていた時、「彼らがエリコを出て行ったとき、大ぜいの群衆がイエスに従ってきた」(マタイ20:29)、町の門のところにひとりの盲人の乞食バルテマイが座っていた。彼は人々の足音を聞いた。何事が起こり、誰が通り過ぎようとしているのか、周りの誰かに尋ねた。すると、ナザレのイエスの一行であることを知った。
彼は、ナザレのイエスの良き噂を知っていたのであろう。イエスの気を引くために大声で叫んだ。「ダビデの子イエスよ、わたしを(今)あわれんでください(恵みをください)」(47節)と。イエスが歩きながら教えておられるのを聞いている者たちにとっては、その叫びは妨げであり邪魔であった。「多くの人々は彼を(厳しくとがめて非難した)しかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた。『ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください』」(10:48)。
人々は、バルテマイの暗黒の世界から救いを求める叫びを留めることはできなかった。ついに、イエスは足を止めて、「彼を呼べ」と命じられた(49節)。彼はイエスのところに伴われた。ここでの人々の言葉が感動的である。「喜べ(元気を出せ、心配しないでよい、安心しなさい)、立て、おまえを呼んでおられる」と。そこで彼は上着を脱ぎ捨て踊りあがってイエスの御元に来た。主は、盲目の男の必要を知っておられたが、敢えてバルテマイに、「わたしになにをしてほしいのか」(51節)と問われた。盲人は言った、「先生、見えるようになることです」と。彼は、肉眼の目だけではない、内面の深いところから心の目が開かれて救われたいと願っていたのではないだろうか。
イエスは。彼の信仰心を見抜いておられた。直ちに、「行け、あなたの信仰があなたを救ったのだ」と宣言され、男はたちどころに癒され目が開かれたのだ。ハレルヤ! 主に願いが適えられた後の彼の行動は注目すべきである。バルテマイは、利己的に自分の道を歩まなかった。「イエスに従って行った」(52節)とある。ここに、急転直下魂の救いを得た者の大きな変化を見ることができると思う。
バルテマイの救いの出来事は、「人に仕えるためにこの世に来られた主イエス」を指し示している。主の公生涯3年半にしても、常に主は人々の必要にお応えになられたお方であった。この一貫したイエスの仕える姿勢は、私たちにとっても大きな慰めであり、励ましであり、感動的な喜びである。
今日も、主ご自身にそれぞれの必要を求める私たちの願いに、イエスは応答して、「わたしになにをしてほしいのか」とやさしく語りかけてくださる。
そこで、バルテマイの信仰に学びたい。
・第一に、熱心に求める心を持つこと。彼は、人生に絶望して毎日物乞いをして惰性で生きていたのではないかと想像する。いつ野垂れ死んでもいい、自分など生まれてこなかったほうがよかったのだ。そんな男の耳にナザレのイエスの良き知らせが届けられた。彼は、是非とも自分の困難をこのお方に聞いて欲しいと思った。漠然とした、何かあいまいな、願いではない。切羽詰まった、何が何でも聞き遂げていただきたいという切実な思いを叫んで訴えたかったのである。必死の願いである。
・第二は、邪魔な上着を脱ぎ去ったように、妨げになっているものは、全部捨てて、空手で主にすがりつくこと。イエスの「彼をよべ」と言われた時、バルテマイの反応は早かった。あまりに熱心であったので、からだに羽織っていた上着を脱ぎ捨てて主の御前に近づいて行った。主の招きに対する応答は早い方がよい。
多くの人々の場合、主の招きを受けてもいろいろ言い訳をする。「みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行ってみなければなりません。おゆるしください』と言った。ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った」(ルカ14:18-20)。これでは、救われるものも救われない。
バルテマイは、イエスの招きを受けた時、一度きりのチャンスとしてそれを捕らえたのだ。彼は、邪魔な上着だけではない、主に迫っていくためのすべての障害を取り除けたのである。かけがえのない好機は、二度と戻らないことがあることを覚えようではないか。
・第三、迷わず適えてくださることを確信すること。「よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い(ユダヤの教師たちがよく使っていた困難を除去する意味の慣用句)、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないなら、そのとおりに成るであろう。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:23,24)。バルテマイは、イエスに対して、ぼんやりとしたあこがれのような思いを抱いていたのではないようだ。はっきりと必ず願いが聴かれることを堅く信じていたのである。主は、この世の医学界の名医以上の存在であることを忘れてはならない。
・第四、彼は道ばたの乞食であったが、このような者に「主が仕えてくださったこと」に感謝して、今度は主に仕える者とされること。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」とは何か、「苦しいことや困難な状況が過ぎ去ってしまえば、その苦しみをすっかり忘れてしまうこと」のたとえである。これは苦しい時に受けた恩も、楽になれば忘れてしまうことを戒める意味にも使われる。
聖書にもこのような例がある。ルカ17章11節から19節に、十人のツァラアト(らい病)の患者が、主に向かって律法によって規定された距離をとりながら、声を張りあげて言った。「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と。イエスは、彼らをあわれんできよめられた。ところが、「そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった」とある。「イエスは彼にむかって言われた、『きよめられたのは、十人ではないか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか』と。
イエスは、癒されたにも拘わらず、神に感謝することなく黙って姿を消した九人のユダヤ人に呆れておられる。バルテマイは、彼らのようではなかった。癒された後、自分勝手に自分の道に歩むことはなかった。彼は、ユダヤの社会から差別され蔑まれる盲目の乞食ではあったが、高貴な感謝の人であった。そればかりではなく、キリストの弟子として主に従う者とされたのである。
これらは、主の僕となる者の大切な要約といえるのではないだろうか。
私たちも、主がよくしてくださったことに感謝して、バルテマイのように主に従って仕える者とされようではないか。
白髪をいただいた兄姉も遅すぎることはない。
