題「ゲツセマネ(油しぼり)」 マタイ26:36-46

今週は、受難週と呼ばれる。主イエスは、十字架の道を辿られるのである。そして、木曜日、最後の晩餐を終えられ、賛美を歌った後、主は、弟子たちと一緒にケデロンの谷の向こう側にあるゲツセマネの園に行かれた。これはオリーブ山の斜面にある広い園であった。ゲツセマネとは、「油しぼり」という意味で、オリーブの油を搾る時、圧搾機にオリーブの実を入れ、大きなハンドルを締める。そうすると実は砕けて、油はしたたり落ちていくのだ。

この場所は、あたかも主が汗を血のしたたりのように流しておられる様にふさわしい名前であろう。主は弟子たちに座って待つように促された後、3人の弟子たちを特別に選ばれさらに園の奧に入って行かれた。主はおそらく彼らを壮絶な祈りの闘いのために友として同行させたのであろう。37節-38節。ここでのイエスは、熱病にかかった重症患者のようにおののき、恐ろしい形相に変わっていった。もはやここにかつての権威の主、力の主はおられなかった。39節。普通ユダヤ人は立って祈る。しかし、主はここで「うつぶし」になって祈られたのだ。では、彼は死ぬことが怖くなったのか。十字架の痛みを嫌がったのか。あの頼りない弟子たちにも目をさましていて欲しかったのはなぜか。

この夜は、悪魔の時である。ユダが主を裏切ってより深い闇は続いていた。そして、ここにおいて悪魔はイエスに総攻撃をかけるのである。天地創造以来このかた、人間に罪を犯させ続けた年を経たサタン。彼の目的それはイエスを十字架につかせまいとする働きである。なぜか、それは主の十字架こそ人類の罪から贖うものであるからだ。これこそ悪魔に勝利するものであった。サタンはこの時、この世の支配者として、主の思いの中に働いて、全人類の罪を背負うことのその凄さと、十字架による父なる神の裁きの恐ろしさをここで嫌というほどに見せたのである。もしかしたらサタンはこの園でイエスを狂い死にさせようとしていたのかもしれない。

しかしそれならば、創世記3:15の預言は成就しないことになってしまう。そこで主は、何度も同じ祈りを父なる神にぶつけながら、壮絶な霊的闘いをなさるのである。極限の状態で綱引きでもするように苦しみもだえながら祈り続けられた。そして、その様子は「その汗が血のしたたりのように地に落ちた」(ルカ22:44)とあるように尋常ではなかったのである。しかし、主は御使の力づけ(ルカ22:23)も得ながら、人間イエスとして内面の葛藤を経てついに勝利されたのである。「苦き杯を飲み干します」、「十字架による人類の救いの御業を成し遂げてまいります」と、主イエスは確信をもって立ち上がるのである

ヘブル5:7に主のゲツセマネの祈りについて言及されている。「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いをささげ、そして、その深い信仰の聞きいれられたのである」と。「苦き杯を取り去りたまえ」の祈りは聞かれなかったが、実はそれこそ祈りの答えであったというのがこの御言である。「御心ならば従います」、その主の信仰こそイエスの祈りの答えなのである。その時サタンは去ったのだ。混じりけない純粋な父なる神の審判を全部飲み干す決心をすることができたのである。ゲツセマネの勝利。それこそ十字架の勝利の序曲であったということができるのではないだろうか。

46節「立て、さあ行こう」という御言の中には、一言の恨みも、一片の憎しみも、憂いも迷いもない。毅然とした主のお姿がある。主イエスは、かつて弟子たちに「主の祈り」を教えられた。「みこころの天に成る如く地にも成させたまえ」と祈れ、と言われたイエスは、ご自身そのとおりになされたのである。それが私たちの救いとなったのである。受難週において、如何であろう。私たちはお互いの人生で自分の思いどおりなることを願い易いが、主の御心がなることが如何に尊く素晴らしいものであるか、この時にこそ味わい知りたいものである。
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