題「復活の喜び」ヨハネ21:15-19

 安息日が終わり、週の初めの日の朝早く、マグダラのマリヤなど複数の女たちが墓を見にきた。しかし、主のご遺体はなく、かねて言われたように復活されたことを知る。マタイ28:1-10に女たちの驚きと大きな喜びの様子が記されている。各福音書に復活についての記録があるが、その中でもヨハネによる福音書は特別である。20章31節ですでに完結しているはずなのに、ヨハネは新たに21章を書き綴った。なぜだろうか。不思議である。

それは彼が復活の現実性を決定的に示すためであったのだろう。この最後の章の復活の記述は、実にリアルに表現されている(1-14節)。「実に主は甦りたまえり!」なのである。ここに現実的な復活の喜びの根拠がある。第二の理由は、新たなる時代のためにペテロを代表とする弟子たちは再出発をしなければならなかった。その一番弟子としてペテロは永久に心に刻まれる体験をした。「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たちが愛する以上に、私を愛するか」(15節)。

主は三度同じことを問われた。その時、ペテロは主が渡される夜、三度主を否んだことを思い出したことだろう。彼はその前に、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないとは決して申しません。」(マタイ26:33、35)と言っている。これは、自分は主に対していつまでも真実に愛し従っていくことを表明したのだ。

彼はどうしてもやり直すために、あの恥ずかしいつまずきの出来事に帰らなければならなかった。彼は正直に失敗と挫折を認めていた。そこで主はペテロに三度主を否定してしまったことを思い出させて、今回は主への愛を三度肯定する機会を与えられたのである。主は、その恵みと赦しの中で、ペテロに三回の愛の宣言をさせることによって、あの三回の否認の記憶を拭い去ろうとなさったのだ。そして、ペテロは、全く主に委ねた(17節)。その結果、彼は主の羊(伝道牧会)を養う働きに召され、それは苦難の道を歩むことであった(18,19節)。

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