題「祖先祭りとキリスト信仰」出エジプト20:3-5

 日本人がクリスチャンになるために足踏みしてしまう問題として祖先祭りがある。せっかく福音を聞いても家の宗教が仏教であり仏壇があるので入信できない方々がおられる。とても残念なことである。これは今日キリスト教会が避けて通ることができない大きな問題の一つであろう。

 神学校の恩師、橋本巽牧師は比較宗教学と再臨に関する研究者であられたが、その名著「祖先崇拝と日常生活」がある。この問題解決のために大いに役立った本である。私たちも参考にしたいと思う。

 さて、聖書の「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(3節)、「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」(4節)とは、モーセの十戒の一戒、二戒である。これらは、私たち日本人の祖先崇拝に真っ向から対立するものだろうか。いくつかに分けて整理しながら学んでみたい。

 ①「クリスチャンが仏事をしない理由」。日本人の祖先祭りは、春夏の彼岸会、夏の盂蘭盆会、命日の四回である。その中でも最大のものがお盆祭りである。橋本牧師は、仏教研究者として、多くの高名な僧侶と面談しておられた。事実確認をされた上でそれらを文字にされたのである。少し仏教について触れておきたいが、仏陀は人間の理性や知恵でわからない死後の世界や来世については多く語っていないようである。ただ来世や死人については、当時のインドの哲学の考えで一般化されていた輪廻説をとった。輪廻転生を推理的に述べたのである。死人を祭るお盆の教えなどは仏陀と全く関係がない。仏陀の死後、インド仏教は南方仏教と北方仏教に分かれた。北方仏教はチベットや支那に伝わった。日本の仏教はこの北方仏教であり、この仏教は儒教、孔子の教えの影響で「孝道」の思想と合体した。そして、支那の僧侶は、「盂蘭盆経」を書いたのである。

 古代には、洋の東西を問わず死霊はこの世に未練があり執着があり、迷ったり家に帰って来ることがあると信じられていたようである。それゆえに祟りを受けないために供物や供養をするのである。それで僧侶が盂蘭盆経を書いたのである。このことについては、仏教学者が盂蘭盆経は仏教の正典ではなく偽典であると言っているそうだ。さて、「盂蘭盆会」とは、梵語(古代インドの文語サンスクリット語)で「ウランバナ」を音読したものである。訳すと「倒懸」(とうけん)。地獄(餓鬼道)において、亡者が逆さまにかけられて苦しんでいるので、その死霊を慰め、救うことを意味している。ではどのようにしてこのような教えが生まれたのだろうか。

 ある日、仏陀の十大弟子の一人目連が神通力で死んだ母親のゆくえを観想した。すると母親は餓鬼道(地獄)にて倒懸苦にあり悶えているのを見た。親孝行であった目連は、驚き悲しんで、仏陀に母親を救い出す道について尋ねた。すると仏陀は、「母親は生前には、貪欲で、無慈悲な人であったので、その報いを受けているのだ。母親を苦界から救いたいならば、救いうるだけの善行を母親に代わっておまえが積まなければならない。また比丘たち(仏の弟子)に供養すれば、その功徳で母親は救われるであろう」と教えたという。それにより母親は救われたとする。この教えに孝道を知っていた支那の人々は喜び、お盆祭りの行事を行うようになったのである。ですから、わが日本においてもそれに倣っているのだ。

 盂蘭盆の季節になると地獄の蓋があいて亡者が帰って来る、といって死霊を迎える行事をするのである。8月13日から15日のお盆の期間。まず先祖の霊は迷うのでその霊を家に迎えるために、「迎え火」を焚く。地方によっては、お盆の前の夜、仏壇のある部屋の戸を開けたまま寝ることもあるようだ。そして、三日が過ぎるとご先祖さまに「地獄に帰ってください」と「送り火」を焚いて送り出すのである。地方によってはこの送り方が違うようである。

 多くの人々は、毎年何の疑問も感じることなくこれらの行事を繰り返しているのである。しかしながら、よく考えてみるとこれは先祖の霊に対して失礼な態度ではないだろうか。前提として、お盆は地獄の逆さづりの苦しみにいるといわれている人たちのためのものである。自分の親や家族が地獄で逆さづりで苦しんでいると決めつけてする仏事である。キリスト教会は、そのようなことはしないのである。

 二つ目の理由は、クリスチャンは先祖の心を考える。先祖は残された地上の家族親族に何を願っているのだろうか。もし亡くなった先祖がこの世に伝えたいことがあるならば、間違いなくこういわれるのではないだろうか。「私は死んで初めてわかった。天地万物の創造者がおられること、人間が救われる道が救い主イエス・キリストであられること、だからキリストを信じ、真の神を信じて歩んでいきなさい。それが人間として一番正しい道であるのだ」(ルカによる福音書16:19-31の出来事がこの根拠)。地上にいる愛する親族が人間をお造りになられた神を信じて生きることが先祖の最大の願いなのである。

 もし現在私たちが聖書の真理に導かれてクリスチャンとして歩んでいるならば、それはご先祖の願いに答えることであり、先祖を喜ばせていることになるのだ。それゆえに、私たちクリスチャンは先祖祭りをしない。

 ②「クリスチャンは先祖を敬うこと」。よくクリスチャンは先祖を粗末にする、と言われることがある。確かにクリスチャンは死者を礼拝することはない。しかし、敬意を表すことはある。聖書は人間を神として拝んではならない、と教えているが、敬うべき人たちを敬うことは教えている。生きている人にも亡くなった人にも感謝し尊敬の念を表わして悪いことはないのである。

 ③「福音を聞かないで亡くなった人はどうなったか」。日本人の場合、救いの知らせ(福音)を聞く機会がなく死なれた人たちが多い。その人たちはどうなってしまったのであろうか。ある人たちは、決めつけて滅びてしまった、と言う。しかし、自分で決めつけないで、人間の生と死は創造者の領域なので神の憐れみの御手に委ねることが肝要である。

 ④「墓地と墓石は偶像ではない」。キリスト教の墓は、故人の生存した証しとしてのご遺骨が納められている記念の場所である。一年に何度も足を運び、祈りの時を持つことは大事である。故人を偲びその恩を思い神に感謝するのである。お墓はきれいにして生花で飾るのはよい。それは供花ではない。人間は、死とともに肉体と霊は分離して霊は創造主の御手におかれる。もはや地上には残されることはない。愛する者はもはや地上の人ではなく御国に移されておりそこにはいないのである。 私たちは、墓に語りかけることもなければ、手を合わせる必要もないのである。そこで私たちは愛する者を心の中に甦らせることができるのである。天と地は神によって一つにされているのである。

 ⑤「主を愛し先祖を愛すること」。神信仰と先祖を大切にすることが相いれないものであるように考えるのは間違いである。偶像礼拝を避けようとして、あまりにも極端な立場をとって、先祖だけではなく家族や親族を躓かせて悲しませることがないようにしなければならない。聖書に教えられているように、大切なことは、神を愛し、隣人を愛し、自分を愛して、そして、先祖を愛し敬うことである。教会では、故人を記念して記念会を行っている。それは、キリストの証しの時であり伝道の機会となる。故人が何よりも喜ばれることになることだろう。以上のようなことを心に刻みながら、益々同胞が救い主を信じることができるように愛する人たちに関わっていこうではないか。

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