| 今回も、橋本巽師の著書に学びたい。日本人にとって位牌ほど大切にしなければならないものはないと考えられている。位牌には先祖の霊が宿っているので、位牌は先祖愛する故人そのものなのである。では位牌の縁由(ゆかり)と意義について見てみよう。お盆の教えや行事が支那から始まり、仏陀の教えと関係がないものであるように、位牌も仏陀と関係なく実は支那の孔子の教えに基づいている。位牌の起源は儒教にある。それを仏教が取り入れて戒名を書くようになったそうである。 戒名(法名)とは、戒律の名という意味で、仏陀の教えを守った証拠として僧侶からもらった法号である。受戒した者に師から授かった名前のことである。仏陀の戒律はたくさんある。仏弟子が守られなければならない生活上の規律として、二百五十戒、五百戒などがあるという(ネットで調べてみよう)。これら一つひとつ善を全うすることによって、悪業、煩悩も消えて仏(無我)の境涯に入ったと考える。日本での仏教が盛んな時代、忙しい仏教徒が一年の時期を選んで集中的に毎日寺参り、寺籠りして戒律を守り、終わると住職から戒律実行者として証拠になる戒名を紙に書いてもらって喜んで家に帰って行ったという。本人が死ぬと紙が古くなるので遺族はそれを板に書き換えることにした。これが位牌である。 位牌はその人が仏に帰依し(仏教の教えを信じ従っていくこと)戒律を守り精進があってこそ、戒名の意味がある。ですから、戒律を守らない者にとって戒名は意味がないのだ。本来お金で買えるものではなかった。大金を支払ってどんなに良いと思われる文字を使って戒名をつけてもらってもそれは悲しきかな文字の行列なのである。仏壇に置かれている位牌は祖先と関係ないのだ。次は、仏壇中心の祖先祭りについてである。今日仏壇に対して供花、供物、燈明、焼香、梵鐘、読経などが祖先礼拝でなされている。では、本当に先祖や家族が遺族や子孫に対してそのようなことをして欲しいと願っているのだろうか。私たち日本人は、神道と仏教の影響下にあるので神棚、神社、仏壇に対して何も疑問に思わない。しかし、神棚と仏壇ができたのは、天武天皇(672年)以後のことで、この天皇の勅令により誰でも座敷内の上座に天照大神の掛け軸、仏教の仏画を掛けて毎日家族で礼拝するようになった。それがいつの間にか神棚や仏壇になったのだ。これは天武天皇が先祖と相談して決めたことではない。 果たしてご先祖様は神棚や仏壇の前で営まれる神事、仏事を本当に欲しているのだろうか。すでに肉体のない祖霊に対してどんなに良い香りやおいしい食べ物を供えたとしてもご本人はそれを匂ったり食したりできない。それは無意味なのである。それよりか、残された者が家族仲良く愛し合い助け合い、偽りのないきよい信仰をもって生きることがもっと大事なことである(第一テモテ1:5)。家族同士遺産相続で争ったり、いがみ合ったりしている世間のある人たちのことが知られているが、それは恥ずかしいことであろう。また悪い心の自分たちのことは棚にあげて、霊界にいる者に対してわずかなお金で買った線香や供え物によって祖霊が慰められるはずもないだろう。先祖や愛する故人たちは、残された者たちが幸せに生きることを願っているに違いない。 ルカの16章に金持ちと貧しい男ラザロのお話が記されている。二人は地上において全く不平等な人生を歩み死んでいく。ラザロは創造主を信じる信仰があったので救われてパラダイスに行って慰められた。しかし、金持ちは死後、黄泉(陰府・ハデス)に行く。そこは肉体がないにも拘わらず苦しみ悶えていた。人間というものは、地上における人生での宗教や哲学や思想によって行く所が違ってくるのではなく、どんな人も創造主の権威の前に屈しなければならないのだ。 人間の生殺与奪の権威者である創造主が設けられた以外に行くことはない。そこで金持ちは取り返しのつかない生き方をしてきたことに気づくがすべては遅すぎた。be to late. I am too late. そこで彼は、せめて地上に残している家族だけは、自分のような生き方をして欲しくなかったので、ラザロを生き返らせて家族に警告して欲しいと願うが、それは許されない。なぜならば、たといそういうことが起こっても不信仰な人間は信じることはないからである。実際、マルタ、マリヤの弟のラザロが死人から蘇った時に人々は怪しんだ。またキリストの復活の際にも素直に信じる者は少なかった。人間という者は原罪により心の目が塞がれているのである。それだから、そういう奇跡によるのではなく、神の言に重きをおいてアブラハムは、「聖書に耳を傾けなさい」と言った。これは、救い主イエスの言葉を聞くことも意味している。 マタイ17章5節「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け。」と、父なる神も言われた。 あなたも先祖・祖先を喜ばせる人生を送るためにも、今のチャンスを生かして、イエス・キリストの言に向き合い、信仰による救いを得ることを願わないであろうか。祝福を祈ります。 |
題「祖先の心」ルカ16:19-31
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